LEIKA AUSTRALIA

永住ビザ取得体験記 

独立移住ビザ編 



このコーナーでは、実際に独立移住ビザを短期間で取得された、レイカのクライエントの体験記をご投稿頂きご紹介しておりますが、永住ビザ取得当時の移民 法・規則に基づいた手記ですので、現在施行されている移民法とは異ることを念頭にご一読下さい。

このコーナーですべてのケースをご紹介することは出来ませんので、一部だけのご紹介に留めさせて頂いております。
独立移住ビザは、技能/教育・年齢・英語力を基本柱とし、厳しいオーストラリア移住省のポリシーのもと、審査されその合格者に永住権が発給されるもので す。 この独立移住ビザを取得されたレイカのクライエントは、優秀かつ専門的職務経験と語学力をもち、行動力に満ち溢れた方々ばかりです。 オーストラリアでバイリンガルの有能な人材を求めておられる日系・現地企業に惜しみなくご推薦致します。
 
 




日本在住 YIさん(2009年2月取得) 

私達夫婦は、オーストラリアで暮らしたいと思いながらも、日本に居ながらにして永住ビザ申請が出来るとは考えていませんでした。 “老後生活を海外で悠々自適に暮らす”という特集をTVで見ては、羨ましいなぁと思いながら過ごす日々でした。
 

無駄に使った時間とお金

2006年11月  留学に関する雑誌で、偶然オーストラリア永住権に関する記事を見つけました。そこに記載されたポイントチェック表を見てみると、IELTSで必要スコアを取得し、私の現在の職種が、“必要職業リスト” に載ってさえいれば、永住ビザ取得も夢ではないかも? ! という嬉しい発見をしたのです。 その後すぐに、某永住コンサルタント会社へ査定依頼をし、ビザ申請に向け話は進んでいたのですが・・・。質問等をしても回答に2週間もかかり、気になる事が色々とあって、結局その会社を通してのビザ申請はあきらめました。
 

やっと出会えた本物の移民書士 

2008年4月  地道に英語の勉強を続け、IELTS3回目の受験にしてついに目標スコアを取得する事が出来ました。その頃、やっとインターネットを導入した我が家では、「今度こそ!」 という思いで、新たな永住ビザのエージェント探しを始めました。過去に移住した方々のHPを読んだり、ブログの著者にメールで直接ご意見を伺ったりもしました。

そしてたどり着いたのがレイカだったのです。早速依頼すると、なんと当日中に査定結果が返信されてきました。査定内容も詳細で分かりやすく、査定依頼の時に質問した事項にも丁寧な回答がありました。噂通り、優れた専門知識をお持ちのベテランの先生だと思いました。
三原さんの査定により、州スポンサーシップのEligibility Listに、まさに私の職種に合った職業名がある事が分かりました。そして、州の当該職でのスポンサーシップが承認されれば、2年間その州に居住・就労する事が義務づけられますが、ダイレクト永住ビザが取得できる。との結果でした。

ようやく、はっきりと進むべき道が見えたと思いました。
2008年5月  レイカに正式に包括代理申請をお願いしました。
 

乏しい英語力&ビザ無しでの就職活動

職業査定(スキルアセスメント)は問題なく取得する事ができましたが、問題は州スポンサーシップの申請でした。スポンサーシップの審査要件として、その州での就職活動を積極的に実行したという証明を提出する必要があったのです。

2008年6月  まずは、CV(英文履歴書)の作成に取り掛かりました。CVなど見たこともなかったのですが、こちらで作成しなければいけない物はすべて三原さんがフォーマットを送信して下さるので、大変助かりました。CVは和文で作成し、レイカ提携の翻訳士の方に翻訳して頂いたのですが、私の和文に沿うように何度も調整をして下さり、三原さんからも沢山のアドバイスを頂いて20日間近くもかけて英文CVを完成させたのです。自分の履歴書が想像以上に立派なCVになって、これなら就職活動も絶対に上手くいくと思ってしまったほどです。

次に、三原さんの指示に従い、移住後に問題なく就職ができる事をアピールする材料として、ジョブオファーに近いものを貰う事になりました。日本に居ながら出来ること(現地人材会社や求人サイトへの登録、実際の求人への応募、電話面接など)必死に行いました。 同時にそれらの通信記録をファイルにまとめ、“就職活動を積極的に実行した証明” としました。
就職活動をしてみて、当たり前のことですが、たとえこれから永住ビザを申請するとはいえ、現在ビザを持っていない人にジョブオファーをする会社はほとんど無いと感じました(その人の経歴にもよると思いますが)。 無惨に断られる日々が続き、スポンサーシップ申請が絶望的に思えてくる中、三原さんからは登録済人材会社へ登録状況や労働市場についての問合せをしてみる事など、前向きなアドバイスを頂きました。アドバイスに従い、あきらめずに続けていると、“ビザが取れれば、就職先を紹介しても良い”というポジティブな内容のメールを人材会社2社から受け取る事ができました。

2008年8月  上記の証明と、その他(市役所や、不動産との通信記録等)をもって州スポンサーシップの申請となりました。
2008年9月  予想よりも早くスポンサーシップの承認を得ることが出来ました。三原さんは、州スポンサーシップ申請において雇用機会の確保が争点となっている事、実は私がオーストラリアへ行ったことがない事、英語力等々を踏まえて、今の私が日本に居ながら最大限出来ることを常に考え、御指示を下さいました。
 

ちょっと珍しい?日本人夫婦のDe facto Spouse申請

ついに、subclass176ビザの申請ですが、ここで乗り越えなければならないハードルがありました。私達は正式には婚姻届を提出していないので、妻がDe facto Spouseとしての申請となり、夫婦としての証明が、通常の様に戸籍謄本だけでは不足だったのです。

そこで三原さんの判断により、公証役場で事実上の夫婦関係の証明となる文書を作成して貰うことになりました。 作成依頼する際、相手は法律家ですから、無知な私にはとても話が難しく、引き受けて下さる公証人を探すのは困難でしたが、三原さんに何度も相談をしながら話を進めて、公正証書を作成して頂けることになりました。この件では、三原さんの法律に関する知識の豊富さに驚きました。

その後の流れとしては、文書の下書きを自分で作成し、扶養証明や賃貸契約書等の資料を添付し送付。それを元に公証人が公正証書を作成、公証人の前で私達夫婦が内容を読み上げ、署名捺印して完成となります。
公正証書の下書き作成では、記載内容や表現がDe facto Spouseの事実認定に関する規定に即したものにする必要があり、ここでもまた、三原さんに数々のアドバイスを頂き、完成する事ができました。
公正証書と夫婦で写った写真、夫婦宛ての郵便物、これらの翻訳をつけてDe facto Spouseの証明としました。
普通なら戸籍謄本の提出だけで済むのですから、私達夫婦の場合は余計な手間がかかった訳です。このようなケースでも完璧なサポートで対応して下さり、とても感動しました。
 

ビザ申請フォーム記入 = 自分自身の棚卸

◆過去10年間の居住地と、会社所在地の情報(過去に引っ越しが多く、若干面倒でした。)
◆過去の渡航記録(パスポートから各国ごとの出入国記録を抽出しました。)
◆親兄弟の出生地と、生年月日(私の場合は、家族構成が少し複雑で、これらを調べるために多少手間がかかりました。数か所の市役所から戸籍謄本を取り寄せ、情報を集めました。)

調べた情報を三原さんへ提出し、三原さんがフォームの下書きを作成して、私達夫婦が内容を確認する。という作業を何日も行いました。情報量が多いので余計にお手数をお掛けしてしまいました。

フォーム以外の添付物としては、
スキルアセスメント合格証、州スポンサーシップ承認通知、De facto Spouseの証明、CV、会社組織図、雇用証明書(上司がサイン済)、給与明細、源泉徴収票、住民票、戸籍謄本、パスポート写真、IELTS結果、日本語能力の証明(卒業した大学から、日本語で授業を受けていた証明書を発行して貰った)、などです。 翻訳が必要なものは全て翻訳をお願いしました。

2008年10月  subclass176ビザオンライン申請完了。添付物のアップロードにはサイズ制限があり、ボリュームを調整しながらの作業は大変だったと思います。また、三原さんはオンラインシステムにエラーが発生することを予測されており、実際にエラーが生じた時には、経験を生かし、非常にスピーディーに対応して下さいました。パソコン操作にも精通しておられるので、安心してお任せする事ができました。

2008年11月  健康診断と、無犯罪証明書アップロード完了。
 

ついにビザ発給!

2009年2月  subclass176ビザ発給の通知を受け取りました。

三原さんとのメール交信のフォルダには、なんと400通近い送受信メールが保存されています。この数は、私達夫婦がいかに三原さんに頼り切っていたかという事。そして三原さんの、どんな疑問にもすぐに回答して下さる誠実さを物語っていると思います。

刻一刻と変化してしまう移民法ですから、ビザ申請は時間との戦いでもあります。三原さんからの休日や深夜のメール、1日に何回ものメール送受信等、仕事に対する真摯な姿勢は、元来、のんびり屋の夫婦がせっせと作業に取り組む原動力になったのだと思います。
この体験談を見てお分かりの通り、経験豊富で信頼できる専門家に代理申請をお任せする事が、永住ビザ取得の最短距離である事は言うまでもありません。
 
 

日本在住 KKさん(2005年7月取得)
 

はじめに

2005年7月8日、私たち夫婦は永住権を取得しました。学生の頃から海外生活を夢見ていろいろ調べてきましたが、まさか日本在住で仕事を続けながら、日常生活を全く変えることなく永住権が取れるとは夢にも思っていませんでした。
しかも、私たちは二人ともいわゆる普通のサラリーマン(夫・・新車ディーラーの営業マン、 妻・・小さな会社の経理事務、前職は社内翻訳)で、特殊な技能が必要な仕事をしているわけではなかったので、今でも私たちが永住権を取得できたことがとても不思議です。
三原さんにメール査定していただいてから永住権取得までの2年間を、タイムラインに沿って以下にまとめたいと思います。少しでも参考になれば、大変うれしく思います。
 

2003年

7/2 メール査定
7/9 スキルアセスメント代理申請契約
8/29 VETASSESSよりクレーム
8/末 IELTS(妻受験)
9/19  Skill assessment 取得(夫・・Economist, 妻・・Company secretary)
11月 NAATI(妻受験)
12月 IELTS(夫受験)
 

当初、私たちはオーストラリアにワーホリ、もしくは留学で渡豪し、定住を目指そうと考えていました。ある時、夫が偶然(本当に偶然)レイカさんのホームページを見つけ、ダメもとで査定してもらおうということになりました。その後、すぐに査定結果が届きました。
結果は、「29歳までに申請すれば、夫婦どちらかを主たる申請人とし、配偶者ポイントを足してパスマーク115に達することができる!IELTSと雇用証明書が問題なく取得できれば、永住権取得の可能性あり!」というものでした。実際、査定の内容は、私たちの予想とはかなり違っていました。
というのは、「私がUSCPA(米国公認会計士資格)を持っていて留学経験もあり英語も得意だから、きっと私が主たる申請人になるだろう」と思っていたのです。しかし実際は、「夫を主たる申請人にしたほうが良い。それは、雇用のミニマム要件が、単一職業の雇用期間ではなく、複合職種での合算雇用期間でl雇用期間が構成されることによることで、レギュレーションでは言及していないもののDIMIAケースオフィサーの裁量が懸念されること、長期職務経験の項目で、同一の職場で3年以上の職歴があるほうがリスクが少ないから。USCPAはオーストラリアの資格ではないため、会計士協会の会員であることと、プロ会計士としての現実的な職務経験がないと、その資格だけではAccountantとしてのスキルアセスメント合格基準を満たさない。Nominated Occupationはそれ以外のものにしなければならない。」というものでした。つまり、私たちが有利になると思っていたこと(USCPAやカナダ留学経験)は、オーストラリア永住権取得のためには何の役にも立たなかったというわけです。これから永住権取得を計画されている皆さん、ぜひこの査定を依頼してみてください。「何がビザ申請に有利なのか?」は、プロにしか分からないと思います。ビザ申請のポイントの多くを占める年齢のことも考えて、査定は早ければ早いほどいいと思います。
 

永住権取得までの手順は
1.まずスキルアセスメントを取得する。
2.IELTSで所定のポイントが取れたら、ビザ申請に進む。」という説明を受け、まず最初にスキルアセスメント代理申請の契約をしました。その後、三原さんの指示通り、必要書類(大学の卒業・成績証明書、戸籍など)を入手し三原さんに送りました。

ところが後ほど、スキル認定機関であるVETASSESSより提出書類についてクレームがつけられたのです。私たちの大学の証明書は「学部」発行になっていたのですが、「Academic registrar(大学事務局)」発行の証明書でなければ認められないという内容でした。私たちは大学に協力を得られるようにお願いしましたが、「できないものはできない!」と言われてしまいました。どうすればいいのか悩んだ挙句、三原さんに直接大学に電話していただくという無理なお願いをしました。そのおかげで、大学側もこちらが希望する形で証明書を発行してくれました。そして9月にスキルアセスメントを取得できました(夫婦それぞれ50ポイント)。

次にIELTSですが、主たる申請人がオール6、配偶者ポイントのためにもう一人がオール5を取得する必要があります。ひとまず私だけ8月に受験しました。結果、無事オール6をクリアしました。あとは夫がオール6を取れれば、当初の三原さんのアドバイスどおり、主たる申請人を夫にして、少ないリスクで申請できます。しかし、学生のとき以来ほとんど英語の勉強をしたことがない夫にとっては、かなりハードルが高かったのです。しかも仕事柄、帰宅時間がかなり遅いため勉強時間もなかなかとれません。なんとか夫を3ヶ月間猛特訓し12月に受験した結果は、オール5.5でした。夫は残念ながら6をクリアすることはできませんでした。

ということは、夫が主たる申請人になることはできません。そこで2つの選択肢がありました。ひとつは、夫がオール6をクリアするまで受験するか、もうひとつは、主たる申請人を私にして、多少のリスクを承知の上で永住権を申請するかです。考えた結果、できるだけ早く永住権が欲しかったので、後者を選択しました。しかし今思うと、あの夫が1回の受験でオール5をクリアできたことが不思議でなりません。そして、また後述しますが、この時の受験でこのスコアを取れていなかったら、永住権は私たちの手元にはなかったのです(次回のIELTSテストは4月中旬)。

同時に、私はNAATI(オーストラリアの翻訳試験)にもチャレンジしました。このNAATIが取れれば、スキルポイントが60になり、永住権取得がさらに有利になるからです。日本では受験できないので、ソウルで受験しました。しかし私にとっては難しい試験で、合格はできませんでした。
こうして、2003年はスキルアセスメントとIELTSをクリアし、来年は申請できるかな?という気持ちで新しい年を迎えました。
 

2004年

2/12 ビザ申請業務委託契約
2/27 三原さんより「雇用証明書」ドラフトを受け取る。
3/初 「雇用証明書」修正案を三原さんに送る。
4/7 ビザ申請書、DIMIA, ASPCへ宅配発送完了(4/15付DIMIAレター、4月7日申請受理表記)
4/8 ビザ申請書、DIMIA, ASPCへ到着確認
4/16 ビザ申請料カード引き落とし確認
5/22 Initial acknowledgement
6/9 地元の警察で指紋を採る(カナダの無犯罪証明取得のため)
6/23 カナダ領事館で書類を発行してもらい、必要書類をカナダ警察に郵送
10月 日本の無犯罪証明書取得(夫婦ともに)
11月 カナダの無犯罪証明書取得(妻のみ)
 

IELTSをクリアしたのでいよいよビザ申請となりました。申請のタイミングは、三原さんのアドバイスで、私のビザ申請直前の現職(単一職業)の在職期間が丸2年になる、5月半ば以降の予定でした。ビザ申請の段階で慌てないように、早めに「雇用証明書」のドラフト作成に取り掛かるため、2月にビザ申請業務委託契約をしました。三原さんがドラフトを作ってくださり、それを私が修正したりなど何度かやりとりをしながら、少しずつ仕上げていきました。

ここで大事件が起きました!!4月1日に急な法改正の発表があり、4月15日よりポイントが115から120に引き上げられるのです!!
私たちはぎりぎり115ポイントだったので、断念しなければならないかと思いました。ところが三原さんに、「スキルアセスメントもIELTSもクリアして、時間差でビザの申請が出来ないのは忍びない。レギュレーション上では支障がないので、ここは複合職での雇用2年を満たしていることから、期限に間に合えばほんの数日しか準備期間として残されていないが、今週末で書類全部揃えられますか?4月13日までにDIMIAに申請できれば、ポイント改正前に申請できますよ!」と言われました。
びっくりしましたが、ここでやらなければ一生後悔するだろうと思い、なんとかやってみることにしました。
4月15日の改正は、その週の前後に土日とイースターホリデーの4連休があり、まるで駆け込み申請を妨げるかのような改正時期の設定とも思われるほどでした。

三原さんからこの連絡を頂いたのが2日(金)の夕方でしたが、三原さんは土日のお休みを返上して仕事をしてくださるとおっしゃるではありませんか!このときは本当に感激しました。他のエージェントだったら、ここまでしてくれたでしょうか?三原さんにお願いして本当に良かったと心から思いました。2日(金)から4日(日)までの3日間、ほとんど1日中メールで三原さんと連絡を取り合い、なんとか書類が準備できました。この3日間は、本当に食べる間も寝る間もなく必死で準備しました。三原さんもたくさんの書類を週末のお休みの中、作成してくださり大変だったと思います。そして5日(月)、急遽会社を休んで、飛行機で大阪へ飛び、大阪のDHLの窓口に書類を持っていきました。四国から送っていたのでは間に合わなかったからです。それだけ切羽詰った状況だったのです。こうしてポイント改正前にギリギリで永住権の申請ができました。あのとき夫のIELTSが1回でクリアできていなかったら、次回の受験日が4月中旬だったため、手遅れになっていました!

5月22日に、 Initial acknowledgementレターを受け取りました。それに従って、ブリティッシュカウンシルにIELTS結果をDIMIAへ送ってもらいました。
その後、三原さんから「無犯罪証明書は、12月くらいまでに準備しておいてください。カナダについても取得方法を確認して手配してください。」という指示がありました。私はカナダに留学した経験があったために、日本のものだけでなくカナダのものも必要だったのです。
それで、カナダの無犯罪証明書について調べてみてびっくり!なんと申請してから発行まで5ヶ月もかかるというのです!!

カナダの無犯罪証明書の取り方は、
1.まず、カナダ大使館に無犯罪証明書の用紙を郵送してもらう。
2.その用紙に地元の警察で指紋を採ってもらう(このとき、警察にはInitial acknowledgementレターを見せました)。
3.カナダ大使館か領事館で「この指紋は○○さんのものに間違いありません」というレターを発行してもらう。
4.上記書類と手数料CAN$25(私は小切手にしました)をカナダ警察に送る。という、結構面倒な作業でした。

この手順で手配をし、5ヵ月後の11月にカナダの無犯罪証明書が手元に届きました。日本の無犯罪証明書は、地元の警察で指紋を採り手数料を払うだけで簡単に取得できました。
無犯罪証明書ですが、海外に住んだことがある方は、その国のものも必要になりますので取得方法を早めに調べておいたほうが良いと思います。
 

2005年

4/15 DIMIAより、健康診断、無犯罪証明書提出の指示
4/19 病院で健康診断
5/初 DIMIAに健康診断結果到着
7/8  Visa grant letter!!
7/27  大使館より、ビザシール付のパスポート到着
9/半 渡豪(ブリスベンに移住)
 

ビザ申請から50週たっても、DIMIAから連絡がなかったのでとても心配していました。「だめになったらどうしよう?やはり夫を主たる申請者にしたほうがよかったのか?」と毎日不安な日々を過ごしていましたが、4月15日、ようやく健康診断と無犯罪証明書提出の指示がDIMIAから来ました!!早速、大使館指定病院を予約しました。このとき主人は風邪をひいていたのですが、健診の日までになんとか回復し無事受診しました。病院にお願いして、DHLでDIMIA宛に健診結果を送ってもらい、5月初旬にDIMIAに到着しました。同時に、三原さんが無犯罪証明書などをDIMIAに提出してくださいました。

そして2ヵ月後の7月8日(金)Visa grant letterが届き、念願のビザを取得しました!!!このレターとパスポートを大使館に送り、ビザシールをもらったのが7月27日でした。ビザ申請から健康診断提出の指示が来るまで1年と1週間。健康診断がDIMIAに届いてから正式なビザ取得まで丸2ケ月。大使館にパスポートを送ってからビザシールをもらうまで2週間強。どの段階においても、あらかじめ聞いていた待ち時間よりも長く、待っている間は本当に辛かったです。「何か問題があったのかもしれない?」と終始とても不安でした。
 

最後に

こうして、私たちは無事永住権を取得できました。辛かったのは待つことだけでした。書類の準備や手続きについては、三原さんが的確なタイミングで指示をくださるので、何も心配していませんでしたし、毎日の仕事に支障は全くありませんでした。自分でいろいろ考えたり調べたりする必要もなかったため、DIMIAのホームページなどをチェックしたこともほとんどありませんでした。三原さんは、私たちが持っている材料(年齢、職歴、学歴など)を永住権取得に有利になるように最大限に活用し、夢の実現まで導いてくださいました。

永住権取得のコツは、「思い立ったらすぐに正確な査定をしてもらう!」ことだと思います。自分で判断していろいろ準備しても的外れかもしれないし、そうこうしているうちに年齢の面でもどんどん不利になってしまうからです。まず正確な査定を受け、その結果を見て、ビザ取得までの計画を立てることが、永住権取得への一番の早道だと思います。

皆さんも夢をあきらめる前に、ぜひ勇気を出して査定をされてみてください!きっと、思いもよらない結果が返ってきますよ!そして、三原さんの迅速かつ誠意ある対応と的確なアドバイスが、きっと皆さんを手助けしてくださるでしょう。
以上、私たちの体験記とさせていただきます。皆さんの夢の実現に少しでもお役に立てれば幸いです。

私たちもこれからブリスベンに移住し、ゼロからのスタートです。家探し、職探し、車探し。。。道のりは長いですが、せっかく取れた永住権を無駄にすることのないように、焦らず少しずつ新しい生活を確立していきたいと思います。三原さん、2年間本当にありがとうございました!
 


日本在住、NIさん(2005年4月取得)

7年越しの夢がかなった!

2005年4月7日、私たちはようやく永年の夢だったオーストラリアの永住権を取得することが出来ました。三原さん曰く、
「2年を越えるおつきあいは他には無い」
と言うことなので、クライアントの中ではずばぬけて最長記録の一家。紆余曲折、途中挫折、山あり谷ありの末なので、あまり参考にはならないかもしれませんが、少し書かせてもらいます。 
 

出会いは7年前

1998年8月「オーストラリア 永住」で検索していて、たまたま出会ったレイカのHP。その充実ぶりに驚き、
「こうやったら永住権が取れるみたいだよ。」
とそれまで漠然と、いつかオーストラリアに住めたら良いねと話していた私たちに「永住権」という方向を指し示してくれました。早速、三原さんに査定していただくと
「可能性あり!」
とのこと。すぐに包括代理申請をお願いしたのですが・・・・
 

第1のアウト

35才の誕生日までに申請したいと無理を言い、短い時間に書類を整え、申請をしました。あとからIELTSの結果を送付すると言うことにして。
そして、初めて受けたIELTS。ドキドキしながら結果を待っていたのですが、その結果は惨憺たるもの。(とてもここで何点だったかなどと言えるような点数ではありませんでした。)
三原さんと相談の結果、規定ポイントに達していないIELTS結果により審査が開始されると結果不合格となりビザは取得出来ないし、記録にも残ってしまうので、申請料は戻ってこないけれど申請を取り下げた方が良いということで、1999年5月にそのようにしました。
 

第1のラッキー

申請は取り下げたものの、エンジニアとしての資格は、いずれ申請するときに必要になるものだからという勧めで、先にIEA(オーストラリア・エンジニア協会)へ1999年5月に技術認定の申請をしていました。
申請後に提出するためのCDR(これまでに自分がしてきた職務の詳しい内容)を忙しい仕事の合間をぬって書いていた最中、1999年7月1日にIEAの申請基準が大きく変わり、申請するためにはIELTSの各セクション6点が必須になってしまいました。IELTS5点がクリアできずに、申請を取り下げた私たちにとって、ますます高いハードルになってしまったかと思ったのですが、幸い、審査基準の変更前に申請していたため、IELTSの点数は問われずに審査してもらえました。そして、膨大な量のレポートを提出したのが1999年11月22日でした。待つこと約半年。4月にようやくIEA認定が取れました。
(このIELTS6.0を問われずに認定を取れたことが、後々、とても大きなことになりました。結局最終的に6点は取れなかったのですから)
 

第2のアウト

3ヶ月ごとに受けたIELTSですが、日々仕事に追われ、勉強する時間は1日に10分取れるかどうか。そんな調子ですから、なかなかスコアアップが図れず、
「あ〜〜、また、今回もダメだった。」
「前回、あと1項目だけだったのに、今回は前回クリアしたところがダメだった。」
と4項目オール5点を取ることが出来ずに月日が過ぎていきました。
そして、悪夢の2002年5月7日、パスマークがそれまでの110ポイントから115ポイントにアップしてしまったのです。IELTSを各セクション6点取るか、配偶者がIELTS5点を取って、配偶者のサポートポイントを加算するか・・・
どちらもかなり高い壁、絶対に壊れそうにない鋼鉄の壁のように思えてしまいました。

その頃、ニュージーランドの永住権の申請条件はIELTSが平均5点で良く、私たちは十分パスマークをクリアする条件があったので、ニュージーランドの永住権申請に切り替えることにし、三原さんには、あとはIELTSクリアだけでしたが、少しでも可能性のある方にかけたいとお話しし、オーストラリア永住権を断念したのでした。
 

第3のアウト

ニュージーランドもオーストラリアと同じように、年々移民の受け入れ条件を厳しくしていっていました。書類を準備している間にもどんどん条件が変わっていったのですが、何とか申請にこぎつけ、ホッとした2日後。移民法が大幅に改正され、それまでIETLS平均5点で良かったのに、いきなり6.5点必須というものになってしまいました。しかも、その条件は現在申請中のものにも適応されると言うことで、私たちもアウトになってしまいました。
 

そして再び・・・

オーストラリア移住の夢をあきらめきれなかった私たちは、英語の勉強を続け、2003年7月に、配偶者が先にIELTS各セクション5点をクリア。これにより、配偶者のサポートポイント5点が得られることになりました。あとは、私のIELTS各セクション5点をクリアするのみ!
2004年の2月には40才になってしまうので、その前に申請をしないといけない。その為には2003年11月15日のIELTS受験がラストチャンスになると思っていました。でも配偶者の職業認定に時間がかかっては、2月までに申請が間に合わないのでは無いかという危惧があり、無理を承知で三原さんにまた申請代理をお願いすることにしました。IELTS受験前の見切り発車でした。
 

第2のラッキー

2003年11月15日に受験したIELTSですが、どうも感触が良くなかったので、半ばあきらめていたのですが、2週間後に来た結果は、見事というか、ようやくというか、各セクション5点をクリアすることが出来ました。本当にラストチャンスでした。ここで、まるで永住権が取れたかのように大騒ぎ&大喜びしたことは言うまでもありません。IELTSをクリアするまでに5年もかかってしまったのですから・・・・
 

三原さんに感謝! 無事申請!
それからの毎日は書類を揃えることに必死でした。二人とも仕事をしていましたが、三原さんは携帯アドレスに頻繁にメールをくださり、どんどん書類を整えていくことができました。土日にもかかわらずメールが来たときには驚きましたが、更には年末年始も返上で、ほぼ毎日、メールでのやりとりをしていただきました。そのお陰で無事、40才の誕生日前、2004年1月中旬にDIMIAに申請することが出来ました。
2004年2月には申請書受領の手紙ももらい、50週待つのみとなりました。この間に、2004年4月にパスマークが120ポイントに上がったのですが、その日以前に申請したものには適応しないと言うことでセーフでした。
 

第4のアウト

2005年1月、50週目前にして
「DIMIAから健康診断、無犯罪証明を出すようにとの連絡が来ました。」
と三原さんが電話をくださいました。
「やっと来たか〜」
と思ったのもつかの間、
「配偶者のスキルアセスメントの取り直し」
を要求されていたのです。配偶者は小学校の教員をしていましたが、教員でのスキルアセスメントにはIELTS7.0点を要求され取得は困難なので、スキルアセスメントにIELTSを問われないコミュニティーワーカーでのスキルアセスメントを取り、提出していました。配偶者がライセンスを要する(教員、歯科医など)職業に就いていても、配偶者のスキルアセスメントのNominated Occupationのスキルアセスメントについては、再アセスメントの要求はなく審査されていたのです。

しかし、職歴が長期にわたって小学校教員なので、教員としてのスキルアセスメントを再提出、しかも2005年3月2日までにと言うものでした。1年間待たされたあげくにアウトか!と目の前が真っ暗になりました。
3年間の居住就労後(最短2年)に永住権を申請できるSIRビザの可能性があるから、そちらへの申請に切り換えるかどうかという選択を迫られたのですが、それしかないのならSIRビザで、と意向を伝え電話を切りました。
 

第3のラッキー

ところがその日のうちに、三原さんがSTNIビザの可能性があると教えてくださいました。私たちにとって、SIRビザって? STNIビザって? と突然降ってわいた話に右往左往していたのですが、とても丁寧に教えてくださいました。サウスオーストラリア州なら州都(アデレード)に住めるし、職業リストにメカニカルエンジニアがあるから、スポンサーシップを取ることができる可能性があると言われました。では、サウスオーストラリア州に申請しようと決めたとたん、あれよあれよという間に三原さんが書類を整えてくださり、DIMIAから連絡が来て2日後にはスポンサーシップの電子申請を済ませていました。しかも、その2日後には無事にサウスオーストラリア州から「ぜひ来てね!」とスポンサーシップ承認のメールが来ました。1年待たされていた私たちにとってはたった2日で返事が来たことに驚きを隠せませんでした。
 

無事に書類提出

STNIビザの書類を整えると同時に、無犯罪証明を取ったり、健康診断を受けに行ったりしました。2005年2月上旬には、サブクラス136から137への変更する旨の書類を含む全ての書類をDIMIAに送ることが出来ました。
1ヶ月後くらいには、変更承認の手紙が、5月か6月にはビザが降りるだろうと言うことだったので、ドキドキしながら待つことにしました。

そしてついに!!!!!
2ヶ月経ってもサブクラス変更承認の手紙が来ないので、変更を認めてもらえなかったら・・・と不安になりかけていたときに、三原さんがDIMIAに進行状況を尋ねるメールを送ってくださいました。すると、次の日、思いがけず、
「STNIビザを承認します!」
と言うメールが返ってきたのです。ようやく、ようやく、私たちも永住ビザを取得することが出来ました。長い長い道のりでした。数日後には親子4人分のパスポートにサブクラス137のビザシールを貼ったものが手元に届きました。それを見たときの感動はひとしおでした。
でも、私たちがビザを取れたのは三原さんのお陰と言っても過言ではありません。いつでも的確なアドバイス、指示、迅速な対応、先を見越した行動、数百通にもなるメールのやりとりがありました。一度もお会いしたことがないのですが、全幅の信頼を寄せていました。

永住権はゴールではなく、オーストラリアでの生活のスタートです。これから新しい生活が始まりますが、そのチャンスの手助けをしてくれた三原さんに本当に感謝しています。ありがとうございました。
 


メ ルボルン在住、SNさん(2004年7月取得)

はじめてメルボルンに来たのは10年前。あの時は絶対無理と思っていた永住権をこのたびレイカさんのサポートを受けて取得しました。友達の紹介で エージェントに頼むのなら絶対レイカさんと決めていました。念のため、他のエージェントもどんなものかと様子を探ってみましたが、レイカさんは、(ウェブ サイトをみてもわかるように)正しい情報、迅速かつ良心的なサービス等、一番信頼できるエージェントであると思いました。

2002年、留学生としてメルボルンにいた私は、どうしてもメルボルンで仕事をみつけたかったのですが、ビザなしではスキルがあってもかなり不利と いう現実に直面していました。永住権の可能性があるのかどうか、レイカさんの審査の結果、1年間Graduate Diploma in Educationをすれば取得可能とのことで、いろいろ考えた結果、このチャンスを逃せば後はないと思い、留学期間をのばしました。

永住権取得に向けて計画はたてたものの、実際取得するまで、私の場合、2つのリスクをくぐりぬけたことになりました。ひとつは、この Graduate Diploma in Educationを勉強している間、永住権申請の際、職務経験を免除してもらうには、2年間のコースを履修しなければならなくなる…というように規則が 変わったことです。この話を聞いた時は、気絶直前!?でしたが、しばらくしてtransition arrangementが発表され、もうすでに1年のコースに在学中の学生には影響しないということになりました。もうひとつはつい最近ポイントが115 点から120点にあがったことです。私は115点しかなかったので、あと少し申請時期が違えば危ないところでした。

さて、レイカさんにお願いして最も安心できたのは、必要な書類をいつ手配するべきかを前もって知らせていただけたことです。職務経験を免除してもら うためにはコース終了後6ヶ月以内に申請しなければいけません。NOOSAのスキルアセスメントにかかる時間等を把握しているレイカさんから、どの書類が どれくらいかかるからいつ手配するべきかなどの具体的なアドバイスは、勉強に仕事で忙しくしていた私にはなくてはならなかったアドバイスでした。 NOOSAのスキルアセスメントの結果遅れで永住権を取ることができず、母国に帰らざるをえなくなった人の話もきいたので、本当にレイカさんにお願いして よかったと思います。あとIELTSもいつ必要になるのか、有効期限はどれくらいかとのアドバイスを頂き、申請時期より前もって受けたのでストレスをもた ずに済みました。その他、無犯罪証明書等、時間のかかるものも前もって手配したのもレイカさんのアドバイスに従いました。書類は提出期限が決められている ので、手配をするタイミングはとても大切です。

10年越しの夢がかないました。これからは、いままでメルボルンでやってきたことをあきらめなくてもよくなりました。三原さん、本当にありがとうご ざいました。

日本在住、KYさん(2003年5月取得)

私は 2003年5月にオーストラリアの永住権を取得しました。 実はパスマーク未達成であり、ヴィクトリア州政府のスポンサー付きによる永住権です。
レイカさんのクライアントのなかで、こういった形での永住権取得者は私が第1号ということで、それに至るまでの経過を述べてみたいと思います。

2000年の夏、シドニーオリンピックが開催された頃、ふとしたきっかけでオーストラリアの永住ビザのことを知りました。 独立移住ビザというカテゴリーがあること、コンピュータ技術者のうちでも、高度需要職(MODL)として5ポイントのスペシャルポイントが得られる職業に C++, Java, Oracle, CISCO などの技術者があるということなどです。
高度需要職のこれらの職種経験者である私は、オーストラリアの永住権を取得でき、さらに仕事も見つけることができるのではないだろうか? すでに40 代になっておりましたが、これが最後のチャンス、挑戦してみることを決心しました。 本当にビザの取得可能性があるのかどうか、専門家の意見を聞いてみることから始めました。

インターネットで見つけたいくつかのエージェントの中から、レイカさんを選んだのは偶然ではありません。
誠実な人柄とそして仕事に対する自信がホームページを通じて伝わってきたからです。2000年12月に電子メール相談サービスを依頼しました。

その結果は、

*独立移住ビザ獲得の可能性がある
*独立移住ビザのパスマークは、現在110ポイントである。
*コンピュータ技術者は、技能認定機関 Australian Computer Society(ACS)で認定審査を受けて合格しなければならず、その認定書が   無い限り、ビザ申請はできない。
* IT(情報システム)の学位がない者の技術認定は、Recognised Prior Learning(RPL)と呼ばれ、ACSの役員で構成される特別審査会において、その技能やどのようにしてITスペシャリストとして教育、職業訓練さ れてきたかなど 
  の資料提出、プロジェクトのプレゼンテーションなどの職業訓練実態などにより、審査される。 この認定申請が第一ステップである。
*通常RPL申請では、MODLの5ポイントは得られない。
*IELTSでオール6.0以上をとる事が出来て、110ポイントとなり、ビザ獲得のパスマークに到達できる。

ITの学位がないため、MODLの5ポイントは貰えない、この部分が自己の査定と決定的に違っていました。そんなことは、私の入手したどの資料にも 記載されていません。ここで専門家の力を思い知り、また得点がギリギリのこともあり、申請代行もレイカさんにお願いすることにいたしました。
まず、MODLのポイントは得られなくとも、その技術を持っている証拠として Java, Oracle, CISCO の国際資格を取得しておきました。

レイカさんとの契約は2001年2月からでしたが、この後大きな障害が待ち受けていました。 勤務先が早期退職をつのり人員削減を図りましたが、そのあおりをもろに受けてしまったのです。 私は、コンピュータ技術に関しては多種の経験を持ち、いろいろとつぶしがきくので、さまざまな仕事をとりあえずアサインされることが多々ありました。上司 には私の移住希望を伝え、RPLの技能申請に必要な書類はできるだけの協力をするとの約束を取り付けてありましたが、その上司に、とりあえず、と頼まれる といやとは言えませんでした。
ほぼ一年、申請資料作成の時間を割くことが出来ませんでした。レイカさんには大変なご迷惑をおかけしたものと申し訳なく思っております。

その後、RPL申請であってもMODLの5ポイントが認められるようになりました、との情報をレイカさんよりいただきました。
2002年4月には MODLの職種の改正が行われ、OracleやCISCOなどが削除された一方でSybase SQLやXMLなどが追加されました。
さらに5月、新パスマークとして115が適用されました。 私の場合は、IELTSで20ポイントが取れるのは必須ですが、それだけではトータルポイントは110となり、新パスマークの圏外です。なんとしても、 MODLのスペシャルポイントをもらわなくてはなりません。

三原さんの日本出張時、RPL申請のプレゼンテーション資料の作成方法についてアドバイスをいただきました。 今までのプロジェクトの中から、C++, Java, Sybase SQL, XML, そしてコンピュータセキュリティと関連したプロジェクトを選択し、入念に準備しました。 雇用証明書の中に、これらのプロジェクトに参加していたという記述をして上司のサインをもらいました。

こうしてACSへの技能認定の申請は、2002年の8月に発送されました。
この直後、勤務先から、現職にずっと留まるか、それとも9月中に退職するかを決定して欲しいとの打診がありました。 会社としては、早期退職を経て組織を再編成したい、そこに退職を計画してすでに着手した人間を、長くおいておくわけにはいかないのだなと考え、退職の意思 を伝えました。
ACSのスペシャライゼーションが取れなかった場合、次のステップへ進むことができないことは承知していましたが、進退の件は8月中には会社に返事をしな ければならず、結果を待っていられないのが現状でした。
 

そしてほぼ一ヶ月後、ACSのスキルアセスメント合格の通知が届きました。 C++の技能により、MODLの5ポイントも獲得することができまし た。 
正直にいって、C++ でのスペシャライゼーションは少し意外でした。経歴を見ればスペシャライゼーションは認められるだろう。 認められるとしたら Java ではないかな ?と考えていたのが本音です。 Java は 国際資格を所有していますので。  しかし、実際にはもっとも経験期間の長いC++でポイントが認められたのです。
これで後は IELTS でオール6.0を確保するのみです。退職し、時間も自由になる。 British Councilの IELTS準備コースに通うことにしました。

しかし、好事魔多しというか、この状況を完全に覆す事態がおきました。IT関連の MODL の削除です。今まで、12職種あったものが5職種になりました。 落とされたなかに私の取得したC++も入っておりました。
私は、この得点を含めてようやくパスマークとなるので、IELTSの結果が出れば、ビザ申請へと進めるところでしたが、改正までに間に合いそうにありませ ん。

レイカさんの示した代替案は、ヴィクトリア州政府が数日前に発表した State Territory Nominated Independent Scheme(STNI)でした。
これに頼るしか、残された道はありません。幸いにして、ヴィクトリア州政府がコンピュータ技術者の需要をもっていますので、まだ希望が持てます。プール マークの70ポイントさえ確保しておけばよいので、IELTSもオール5.0でもかまいません。
制限となるのは「移住後2年間は、ヴィクトリア州で仕事を見つけ、居住すること、この条件ならば甘受できます。 STNIを視野にいれて、ヴィクトリア州政府のNominationを取り付けるための準備を開始しました。
資料はほとんど ACS認定用のものを元にレイカさんが作成してくださいました。 しかし、このままでは、現在の職業に無職と記入することになります。

そこで、以前よりコンピュータ技術者として手伝って欲しいと誘ってくれていた知人に頼み込み、雇用を確保しました。
British Councilへ週2日通うため 勤務は週3日、しかも書類発送までの時間は一週間、この間に勤務が開始されているようとの結構シビア   な条件でしたが,その知人は無理を聞き入れてくれ、おかげで体裁を整えることができました。

12月、無事一回のテストでIELTSのオール6.0をとりました。STNIですので最高ポイントでなくともよかったのですが、レイカさんの素晴ら しい仕事に対して、わずかでもこちらの努力を示すことができ、少しほっといたしました。
そして2003年1月に STNI の承認がおりると、2月中には無犯罪証明も含めてビザの申請を完了し、5月には永住ビザが取得できました。  オーストラリア国外からの申請では1年程度かかるのが普通と聞いています。 
STNI つまり、プールマークしか獲得できなかったために3ヶ月程度でビザ取得ができたのは、ケガの功名という他ありません。
 

このように紆余曲折を経ながらも、最終的には目標の永住ビザ取得ができたのは、レイカさんのおかげです。 コロコロ変わる申請条件、その最善の道が閉ざされたこの時点で、その制約の中での次なる最善の方法を示していただけました。
レイカさんは、永住権取得というゴールに対してはっきりとした見通しが立っている、さらに不慮の状況の変化に対しても柔軟に対応すること ができる。 まさにプロフェッショナルであると思います。

さて、私が三原さんにお会いしたのはRPL申請の資料作成方法のアドバイスをいただいた、ただ1回のみです。  国際電話でのやり取りが1回、これは ヴィクトリア州の STNI申請のため、早急な打ち合わせが必要となったためです。
この2回以外はすべて電子メールと国際郵便のやりとりだけで、上記の複雑な作業をおこなってきました。  私のように日本在住の人も、安心して依頼できます。

日 本在住、MSさん(2003年4月取得) 
 

1.三原さんとの出会い

私が初めてレイカオーストラリアを知ったのは、2000年の6月ごろ、たまたま妻がインターネット上で移住に関するサイトを見ていてみつけたと言 う、極めてシンプルなものでした。今にして思えば、初めて見たのがこのサイトであったことは、この上なく強運であったと言えるかもしれません。

当時私は、大学卒業後入社したホテルで4年目を迎え、レセプションで働いていたときでした。学生時代に、ワーキングホリデーでオーストラリアにいた ことはありましたが、移住に関しては全く無知であり、それに関する様々な噂をときどき耳にする程度でした。
私自身、オーストラリアの素晴らしさ(もちろんその反対も)は身をもって知っていた事、また世の中の状況により、私の勤めていたホテルも海外駐在員の制度 の撤廃で、自身が目標としていたものがなくなった事、これらの理由で、移住には大いに興味がありました。

とりあえず、レイカオーストラリアに電話した後、電子メールで、自分に移住に十分な資格があるか査定してもらったのが最初でしょうか。その査定結果 は、現在の私の職業、ホテルマンでは、SOLの職業が当てはまらず、ポイントをクリア出来ないというものでした。後々分かるのですが、このあたりの判断 が、私が最終的に三原さんに依頼した要因だったんだなあと強く確信しています。

その後あきらめ切れない私は、もう一度三原さんにメールを出して、今の私の状況から永住ビザを取得する方法はないか尋ねました。その時点での返事 は、この体験記のコーナーにも何名か見受けられると思いますが、60ポイントの資格が取れるコースを卒業して、職歴免除を適用してビザを申請するというも のでした。
入学、授業、卒業と自分ではかなりの苦労を乗り切ったと感じてますが、おそらく読んでる方は大して興味ないと思いますので、省略します。
 

2.三原さんへ依頼

留学前の日本での語学学校、また大学のコース期間中、そんなところに身をおいていると、必然的に似たようなことを目標にしている人に出会い、またそ れに関する情報の交換などがあります。そういった情報の中で私が毎回感じたのは、移住に関する噂はほとんど信憑性が低いということと、私はなんてラッキー なんだろうと思ったことです。
大手のビザコンサルタントに申請を依頼したことのある知人は、パスマークに5点ほど満たないまま申請を勧められ、長い時間と大きな料金を無駄に費やしてし まったようでした。その当時の私は、そんなケースもあるのかな?ぐらいに思ってましたが、可能性が0ではないでしょうが、限りなく0に近い可能性のまま申 請してしまうのは、プロとしてはどうかな?と今は思えます。「現在のあなたの状況では無理です。」と厳しくも依頼者のことを考えた判断をしてくれるような コンサルタントに最初の一回目から出会っていたことは、たまたまサイトを見た妻に感謝するのみです。

大学のコースも半ばのころ、クラスメイトのほとんどはビザの申請に興味を持ち、どこに依頼するか考え始めます。私の気持ちが揺れたのは、とっても料 金の安いコンサルタントが、生徒の一人の紹介で、クラスに説明に来たときでした。個人的には、そのコンサルタントも別に悪くないと思いました。実際、ス ムーズにビザを取得したクラスメイトもいます。それでもなお、私が三原さんに依頼した理由は、三原さんの、ビザ取得に関する情報に対する自信とその根拠、 さらにその説明にあったと思います。何かと疑問を持ち質問をする私に対して、かなりプロらしく説明していただいたと思います。疑問点に答え、さらにその答 えの根拠となる法律を、実際に見せながら説明してくれる、移民法のもとで申請する以上、かなり安心する説明でした。
料金に関しても質問しました。まあ、なぜ高いのか?と。実際、法律関係の仕事に従事する人は、基準になる時給のようなものがあって、それを依頼にかかる時 間で算出するようですね。高いというよりは、まあ法律家の妥当なとこかと思いましたし、一生を左右する問題です。私は決して高給取りではありませんが、十 数万円の違いぐらい、申請からビザを待つ期間の不安になる気持ちを考えたら、確実な仕事をしてくれるコンサルタントを選ぶことに何の問題もありませんでし た。
 

3.申請から一年後

手元に独立移住ビザの貼られたパスポートがあります。これを見たとき、やっとスタート地点まで来た喜びと、ラッキーだった、という気持ちでした。も ちろん、待っている間は不安になりました。でも、ほとんど全ての疑問は申請前に片付いていましたので、そんなに大したことはなかったと思います。

この体験記を読むと、まるで私はレイカ・オーストラリアの広告塔のようですが、実際そのつもりで書いています。申請に価する資格ポイントを自分でな んとか獲得すれば、手続きのパートナーとして三原さんは間違いないでしょう。確実な仕事振りは、イージーゴーイングの国オーストラリアでは貴重な存在で す。

最近、「ビザどうやったらとれるの?」と出会った人に聞かれると、ヤフージャパンでキーワードに「オーストラリア移住」って入れてみたらすぐでてる よ。と答えています。ここのページを既に見ていらっしゃる方、次は電子メール査定しかないんじゃないでしょうか。

メ ルボルン在住、NKさん(2002年6月取得) 
 

2002年6月、永住権取得を知らせる手紙が、アデレードプロセッシングセンターから届きました。永住権を申請してから、まだ2ヶ月半しか経ってい なかったのに!

私がレイカさんに出会ったのは、ちょうど2年前の7月だったと思います。オーストラリアに来て約半年が経っていました。 そのころ私は、メルボルンのある大学院で一年間の修士課程に在籍しており、一学期を終えた私は、来年の進路について考え始めていました。

日本に帰るか、オーストラリアに残るか。いろいろ調べていくと、オーストラリアで仕事をするには永住権がないと、とても難しいということが分かりま した。
その時、初めて知った永住権の存在。私でも申請できるのかな、どんな条件が必要なんだろう。 時間をみつけては、移民局へ行ったり、いろいろなウェブサイトにアクセスしたり。それでも何から始めていいのか分からず、困っている時に偶然見つけたのが レイカさんのホームページでした。 少しでも永住権に関する情報が入れば、と軽い気持ちで申し込んだ査定でしたが、レイカさんの詳しい査定結果を通して、私が永住権を得るために、何をすれば いいのかが明確になりました。

60ポイントの教職の申請では、Graduate Diploma in Educationのコースを修了する必要がありました。
それとは別に私の日本で卒業した大学の学位に関連するSOLの職業で永住権を申請できるということで、早々に永住権の申請をレイカさんにお願いすることに しました。 レイカさんの指示に従い、どんどん必要な書類を集めました。

しかし、問題だったのはIELTSのスコアでした。技能認定も合格して、あとはIELTSだけ。簡単だと思っていたIELTS。 ところが、IELTSの全ての項目で6以上とらないといけないはずが、2回も受けて、どちらもリーディングで落としてしまいました。 そうこうしているうちに、コース終了後6ヶ月間に限る職務経験免除の対象になる期間が過ぎてしまったのです。
これにはさすがに落ち込んでしまいました。それまで、完璧な仕事で私をサポートしてくださっていたレイカさんもがっくりされたと思いますが、それでも、私 を一生懸命励ましてくださり、私もGraduate Diplomaのコースを修了後のチャンスは絶対ものにするぞ!と立ち直りました。

それから、あっという間にコースも終盤に差しかかり、当初の予定であった、教職の職業での申請準備が始まりました。
前回と大きく違うのは、移民局で大きな改正があり、60ポイントの技能職で申請する人は、オーストラリア国内での申請が可能になったということです。 申請した後は、ここでGraduate Skilled Temporary visaを取得でき、結果が出るまでの間はオーストラリアに残り、フルタイムでの就労も可能ということでした。 前回同様、レイカさんの的確な指示に従い、着々と準備が進んでいきました。3度目の正直、IELTSも、今回は問題なくクリアできました。

そんなある日、面接を受けた学校から内定をもらいました。 とても嬉しかったのですが、Graduate Skilled Temporary visaという制度が新しいため、信用してもらえず、Educational Visaを申請するように言われました。
このビザを申請している間は、永住権の申請に待ったがかかってしまいます。同時に2つは申請できないからです。

教職の認定を受けた2月、私はEducational Visaがおりるのをひたすら待っていました。
また、前回のように職務経験が免除される6ヶ月を過ぎてしまうのだろうか、と不安が横切りましたが、その数週間後、無事にEducational Visaを取得し、レイカさんがすぐに永住権の申請をしてくださいました。
そのたった2ヶ月半後、永住権を取得できてしまったのです。
Educational Visaで待たされた期間を含んでも、Skill Assessment 申請から永住権取得まで、ほんの半年しかかかりませんでした。私の周りには、一年以上も待っている人や、許可されなかった人もいたので、本当に嬉しかった です。永住権取得によって広がった可能性の喜びを、心からかみしめています。

今回、勉強や仕事で忙しい中、短時間で永住権を取得できたのは、一重にレイカさんのおかげだと思っています。本当にどうもありがとうございました。
永住権取得を考えている方は、ぜひレイカさんに相談されてはいかがでしょうか。きっと道は開けると思います!

東 京在住、HHさん(2002年6月取得) 
 

・ レイカさんとの出会い

2000年の10月に夫がインターネットでレイカさんのホームページを見つけたことが、我が家の運命を大きく変えるきっかけとなりました。
さっそく私たち夫婦の査定をしていただいたのですが、レイカさんからの情報では、シドニーの大学で教職のGraduate Diplomaを取得すれば職業経験なしで永住ビザに必要なポイントがとれるということでした。

夫が永年勤務している会社を退職して留学ということも出来ません。そこで、夫に頼まれて、何と私が入学することになったのです。
オーストラリア移住計画―それは私にとってはまるでふってわいたような話でした。以前、夫の駐在で4年間アメリカに住んだことはありましたが、オーストラ リアには一度も行ったことがありませんでした。再び海外で働くということが夫の望みであることは知っていましたが、まさかここまで本気だったなんて、と正 直、驚きました。

しかし、当時もうすぐ39歳になるという年齢の私には迷っている暇はありませんでした。とにかくやるだけやってみて、あとのことはそれから考えよう と思い、あわただしく大学のApplication formをとりよせ、入学に必要なエッセーを書き、電話での面接を終え、12月に入学が決まって、1月に勤めていた会社をやめ、2月に渡豪しました。
 

・ シドニーでの新生活

大学のコースは3月から始まりました。4月には小学校2年生の娘を日本から呼び寄せ、こうして、オーストラリアと日本での家族別々の生活が始まりま した。
大学のコースは夜7時までの授業もありましたので、子供の面倒の方は、after school careのほかにベビーシッターも雇って、なんとかきりぬけました。

日本で働いている夫とは週末に電話で連絡をとりあうという生活でした。
外国で子供と二人きりで暮らすことに最初は不安もありましたが、子供も現地の学校に割りとすんなりと馴染み、また、娘のクラスのオーストラリア人のお母さ ん方にも色々助けていただいて、まさに「案ずるより産むが安し」という感じでした。レイカさんとは2001年の6月に正式に契約を結びました。
 

・ アメリカの無犯罪証明

レイカさんはVisa申請までの流れとどの時期に何をすべきかということに関し、細かく説明してくださいました。
無犯罪証明もレイカさんの指示で早めにとる手配をしましたのでスムーズにことが運びました。

以前アメリカに住んでいたのでアメリカからも取り寄せる必要があったのですが、7月早々にFBIに依頼をしておいた為、8月には入手することができ ました。
9月にテロ事件があったことを考えると、早めに動いて、その前にとっていたので本当に良かったと思いました。
あの事件の後だったら、対応は随分遅れていたのではないかと思います。
 

・ Visa申請へ

11月で大学のコースが終わり、レイカさんにはコース終了と同時にただちにNOOSRへのアセスメントの書類を発送してもらいました。
翌年の1月初めに40歳になる私にとって、その前にDIMIAへ申請できれば5点高いポイント(115点)での申請になるため、年内に申請できるかどうか は大きなポイントでした。
レイカさんはその辺のところも細かい配慮をしてくださり、”Super Priority”扱いで書類をNOOSRに提出してくれました。
この結果、1ヶ月という短期間でNOOSRのアセスメントをパスし、無事、12月28日に、つまり、私がまだ39歳の間に永住VISA申請にこぎつけるこ とができたのです。

実際、2002年の5月にパスマークは5点上がって115点になりましたが、それ以前に申請済みの人には関係ありませんでしたので、ここでの5点が 結果を左右したわけではありませんでしたが、気持ちに余裕が持てたのはとてもありがたいことでした。

永住ビザ取得には、自分自身以外にも配偶者ポイントというのがあります。
39歳のままで申請できるのか、はたまた40歳になってしまうのか、ビザ申請の時期によっては年齢ポイントが5ポイント下がってしまいます。
備えあれば、憂いなし・・・トータルポイントには、夫の配偶者ポイントの5ポイントも加算することで保険をかけようと思いました。
そこで、夫も私と同様に技能認定を取得し、IELTSで必須ポイントをマーク、雇用基準も押さえ、5ポイントが確定しました。
夫も仕事に追われながらも、単身の不自由な暮らしの中から応援してくれました。夫が持つ配偶者ポイントの後方支援は、安心保険でした。
共同作業のパスマークは、夫婦で積み上げたポイントです。
 

・ 夫の高血圧

こうしてレイカさんの指示のもと、着々と物事は進んでいったのですが、12月になって、ちょっと面倒なことがおきてしまいました。
夫が日本の指定医で受けた健康診断で、血圧が高く、下が100を超えてしまったのです。
高血圧は心臓病に繋がる要因と見られるため、規定より高い人は審査をパスできないのだそうです。
クリニックの人にこの結果はこのまま日本のオーストラリア大使館に送るということをいわれたと夫から連絡が入り、ただちにレイカさんに連絡をとり、指示を あおぎました。

ビザ申請前の受診は、この検査結果については大使館に送られても心配することはないので、降圧剤で血圧を安定させた後、再度、今度は別のクリニック で受診する、またそのときに飲んでいる薬の名前を含んだ所見をかかりつけのドクターに書いてもらい、それを一緒に同封してDIMIAに送ってもらうという ものでした。
こうして、夫はかかりつけのドクターをより信頼できる別のドクターに替え、食事にも気を配り、体にいいサプリメントも飲み始めたのです。
その後、DIMIAから夫の健康診断を提出するようにとのレターが来たのは2002年の3月のことでした。

4月に指定医で健康診断を再受診し、高めながらもなんとか血圧の基準値をクリアし、あとはドキドキしながら結果を待つことになりました。
6月6日に永住権確定のレターのFAXがレイカさんより送られて来たときには本当にほっとし、まさに肩の荷がおりた気持ちでした。
そして、待ちに待ったVisaラベルの貼られた家族3人分のパスポートは6月19日に大使館より送付されてきました。
 

・ ついに永住Visa取得

最初から最後まで、レイカさんの指示はすべてにおいてプロフェッショナルで、且つ細かく的確なもので、また、どんなときでも即座に返事を返してくれ ましたので、いつも安心してお任せできました。
我が家のようにいろいろと面倒なことがあった家族でも、これほど短期間に永住ビザがとれたのは、レイカさんのアドバイスに基づいて、事前に完璧に手配を し、そのため、後になって追加書類の提出を要求されることもなく、よりスピーディーに審査がなされた結果だと思います。

Visa申請より、6ヶ月足らずで念願の永住権を手にすることができ、レイカさんには本当に感謝しております。
これまでとはまた違った人生をオーストラリアという土地で新たに始めることができるということに、今は家族一同わくわくしております。

最後に夫からの一言を付け加えさせていただきます。
 

「血圧の件では苦労しました」

2001年の夏頃だったでしょうか、家内経由でショッキングな三原さんの話が入ってきました。それは、高血圧と診断されると、ビザ申請上非常に問題 になるとの情報でした。
「そんな聞いてないよ。」というのがその時の偽らざる気持ちでした。

というのも、数年来、下側が高く毎月通院して薬をもらい続けていたのですが、最初にかかった医者からは、「随分薬の量を増やしてきたけれども少しも 改善しない」と言われ、転勤後にかかった大学病院の医者からも「上が高いのは薬で調整がしやすいが、下側で且つ高齢者でない場合は、本音を言うと薬を出し ても余り効かない。」などと言われる始末で、近時は自分でもあきらめ半分、生活に支障はないから良いかといった開き直り半分の状況であったからです。

とはいうものの、大事なことですから、意を決して、例の医者にビザ手続きのことや、現在は薬を飲んでも下が90から100程度になっているが、どう しても80程度にコントロールしないといけない旨を、半ば泣き落とし戦略も交えて話しました。

しかしながら、問題の医者は「計り方によって測定値はブレルが充分にコントロール出来ており、今の薬で充分」の一点張りで埒があきませんでした。
そんな中、会社での健康診断などでの測定値が80台になったりしていたので、指定医でビザ用に検査を受けてみることにしました。
当日は数日前から医者の許可なく勝手に降圧剤の量を増やしたりしていたので内心自信があったのですが、結果は110辺りで話になりませんでした。
例の医者には普段コントロールできている旨の診断書を書いてもらうように依頼しましたが、これが又、プアなもので完全に打ちのめされていました。

こんな中、三原さんにEメールで相談すると、「兎も角冷静になってください。未だビザ申請の前の段階であり、しっかりとした医者に改めてかかり、診 断書も予め準備して、ビザ申請後に指定医の健康診断を受けましょう。
場合によっては患者と落ち着いて話してくれる個人病院の方が良いかもしれませんね。」という具体的且つ心強いアドバイスを即時にいただきました。
大げさかもしれませんが、手続き面だけでなく精神的にも救われた感じがしたのを昨日のことの様に思い出します。その後、幸いにも専門性が高く、患者との関 係も大切にしておられる良いクリニック(高血圧では定評のある順天堂大学OBの先生が開いておられ、家からは2時間ほどかかりますが通いました)が見つか り、且つ、薬も複数の薬を組合わせた方が副作用の面でも良いから試して見ましょうとのことでスタートすると、1ヶ月もしない内に下がり始め、2ヶ月で80 台に行くようになりました。

実は、話はここでは終わらず、その後大使館から実際に指定医健康診断の指示が来た際、自信を持って受けたにも係わらず、下が90台後半になってし まったのです。
前回の110に比べれば随分ましでしたが、あれだけ普段は良かったのにと複雑な気持ちを整理するのが大変な毎日でした。
それだけに最終的にビザ発給決定の通知が舞い込んだ時は、なんともいえない感慨がありました。
こんな感じで血圧の件ではキリキリマイさせられましたが、これを機に塩分を控えるなど健康面に気を配るようになり、結果的には却って良かったと考えていま す。

日 本在住、H.Iさん34歳 (2002年5月取得)
 

2000年12月に、レイカさんに独立移住ビザ取得の包括代理申請を依頼してから、約1年半の歳月を経て2002年5月にようやく念願の独立移住ビ ザを取得しました。

1年半という長い期間にわたり、丁寧かつ迅速に対応してくださり、また時には厳しい指摘をしていただいたことでここまで到達できたものと感謝してお ります。
ITという職業柄、なかなかプライベートの時間をもてない毎日の中で、ビザの取得に成功したのは、レイカさんのご指導のおかげと思っております。

これから独立移住ビザを取得する方々のために、少しでも私の例が参考になればと、筆を執りました。 基本的には、レイカさんの“迅速な”(本当に!)指示で準備すれば何も問題ありません。
ここでは、私が非常に苦労した『ACS技能認定-RPL』と『無犯罪証明書』について、以下にまとめます。
 

(1) ACS技能認定-RPL

ちょうどこの時期は仕事のほうも大変な状態で、本当に苦労しました。英文でドキュメント準備すること自体、私にとっては慣れない作業でしたから。
へたくそな英文でしたのでネイティブチェックは、当時通っていた英会話学校の先生にお願いしました。
正式な文書ですので、身近なネイティブスピーカーを探しておくことをお薦めします。

一番の難関は、「雇用証明書」でした。これは、会社レターヘッドつきで上司のサインが必要です。私の会社のように非常にお堅いところでは、なかなか 頼みづらいものです。
(昔は、電○公社でした)
下世話な話しですけど、このような頼みごとは、会社の成績にも影響する可能性大ですし、英文にサインなんて文化がない職場環境だったので、非常に気を使い ました。

結局のところ、理解ある上司に正直に説明して無事サインをもらいました。私のような悩みを持つ人はたくさんいると思いますが、覚悟を決めて正直に話 せば何とかなるもんです。(というか、やるしかないです。)
 

(2) 無犯罪証明書

3〜6ヶ月かかるといわれていたACSの技能認定-RPLが、驚くべき速さで交付され大使館へのビザ申請を2001年7月に済ませた我が家は喜びに 沸いていました。
この分では秋にもビザが発行されるだろうと。1年も待たずに独立移住ビザを手にすることができるのだ!!

しかし、この次に大きな落とし穴が待っていたのです。
大使館よりビザ申請を受け付けた旨の連絡(大使館からの要請を予想し、マレーシア大使館へは申請済みであったが)があり、次の指示として「日本及び1年以 上滞在した各国での無犯罪証明書を提示するように」との連絡をうけました。

私は以前マレーシアに1年赴任していたので、早速マレーシア大使館に「無犯罪証明書」の発行手続きをとったのでした。日本では1週間で発行されるこ の「無犯罪証明書」ですが、マレーシア大使館職員にきくと「通常2ヶ月はみてください」とのこと。
ここにきて、2ヶ月とはちょっと痛いが、まあ今まで順調にきたのがおかしいくらいなのだ。ここはガマンしなくては。
ところが、2ヶ月たっても「まだ連絡ありません」  3ヶ月、5ヶ月たっても「もう少しお待ちください。マレーシア側からの連絡待ちです。」

そして、2002年になっても音沙汰はありません。マレーシア赴任時代の友人を頼って色々と工作しましたし、マレーシア大使館にも直接乗り込んで請 求もしましたが、効果なし。ついには、オーストラリア大使館からも現状説明を求められ、また健康診断の再受診(健康診断の期限は12ヶ月)の要請がきてし まいました。

ビザ取得に先立って就職先が決まりかけていた私は焦りました。そして、レイカさんに相談したのです。今のビザ申請を取り下げて、いったんビジネスビ ザでオーストラリアに入国し、再度現地で独立移住ビザの申請をするということの可能性について、です。ポイントもクリアしていたのに、です。それほど私は イライラを募らせてしまっていたのです。

そして、以下の助言をうけたのです。「永住権は簡単に取れるものではありませんので、目先で見るか、将来の基盤を大事にするか、充分お考え下さい」
ううむ、その通りです。レイカさんのこの言葉で、「マレーシアから無犯罪証明書がくるまで辛抱だ」と気持ちを切り替えることができたのです。
結局マレーシア大使館から無犯罪証明書が発行されたのは、申請から11ヶ月たった2002年5月のことでした。

ここで皆さんに一言、
「海外に滞在経験をお持ちの方は、是非是非、早い段階で申請しておくことをお勧めします」

上記(2)のトラブルはあったものの、それ以外はスイスイ進んで、5月24日に念願のビザシールが貼られたパスポートを手にしたのです。

レイカさん、本当に本当にありがとうございました!

日 本在住、HMさん(2001年7月取得) 
 

遅ればせながら私の体験を伝えます。

すでにたくさんの方々がこのコーナーでご自分の体験を熱っぽく語っておられるので、細かいことは省きます。
人それぞれ、ケースバイケース様々な困難があり、障害があって、まあ、永住権というのは取得が大変だよ、ということはわかって頂けたと思います。

でも、ひとつ言えるのは、オーストラリアの役所仕事と日本の役所仕事を同じに考えてはいけないということです。 日本のように物事がきちんきちんと期日を守ってなされる訳ではありません。担当者がホリデーにいってしまってるかもしれません。 書類がデスクの引きしの中で忘れ去られているかもしれません。担当者がサインを一箇所忘れてしまって、全部、最初からやり直し・・・かもしれません。 冗談でなく本当にこういうことがあるのです。それが、オージーです。

おまけに法律が毎年、ころころ変わります。去年OKだったことが今年はダメなんてことはザラにあります。それなのに情報がありません。 日本のようにあらゆる情報がどんどん飛び込んでくるわけではありません。
だから、その情報を自分で意識して、積極的にGETしていかなければいけないのですが、これがまた、大変です。時間と労力がやたら、かかります。
と・・・いうのは移民局にしても大使館にしても、自分の担当している仕事以外はI don't know.  That’s not my job だからです。調べてくれるわけでもありません。 日本人のようにみんながみんな親切でまじめなわけではないからです。

私はこういったわずらわしいことが申請する前からわかっていました。過去に色々な国に住んでいたことがあったからです。 自分で申請、取得をする人もいますが、(そのほうが安いから)私は精神的負担、時間のロス、を考えたら、絶対エージェントに頼むつもりでした。

値段の差はエージェントごとのサービスの内容で様々でしょう。Leikaさんは、確実にやるべきことをやってくれます。情報は早く、的確です。 質問には迅速に答えてくれますし、きちんと調べてくれます。

海外での情報収集というのがどんなにめんどうくさくて、大変なものか海外で生活したことがある人なら、わかるでしょう。 申請時、私はUTSの学生でした。勉強と実習に時間が集中したかったので、安心と確実性、時間をプロのサービスの対価でとわりきってお願いしました。 そして、それで大正解でした。

皆さんももし、いくつかのエージェントの間で迷っていらっしゃるなら、絶対 安心を与えてくれる先にするべきだと思います。
そのほうが結果的に回り道しないですみますよ。(^o^)

日 本在住、C.Tさん31歳 (2001年7月取得)
 

わたしの永住権取得までの奮闘記

・天にものぼる気持ちってまさにこんな気分

今までの私の人生の中で、こんな達成感を味わったのは初めてだった。 それもこれも、きっと長い間、苦労に苦労を重ねた末、手に入れたものだからだと思います。

英語圏の国に住むのは(実を言うとアメリカだったのですが)昔からの夢だった。その私が何を血迷ったのか、韓国に留学してしまったのが、今からちょ うど10年前。最初はハングル語だけちょっと習って、その後はすぐにニューヨークに行こうって思ってました。ところが、はまってしまい 正規の大学で学ぶ ことなり、それも一番輝かしい青春時代を5年という長い歳月を韓国で過ごしてしまうことに……人生というものはわからないものです。自分では想像もしな かったことが突然起きてしまって、それが自分の人生となってしまうのですから……とまぁ、この話は置いといて。

韓国人とは絶対結婚しないぞ!するんだったら金髪と決めていた私ですが、いとも簡単にKorean Guyと結婚してしまうはめになってしまいました。それがオストラーリアとの縁の始まりとなりました。というのは、彼の家族がオーストラリアに移民してい るということで(彼は運悪く軍隊の懲役中でもらいそこなってました)常に、外国に目が向いていた私達は、意気投合し、それからの私達の目標は、オーストラ リアの永住権に的が絞られました。

式を挙げ、すぐにオーストラリアへ飛びました。彼の家族がいるし、なんとかなるだろうという安易な考えでした。特にKorean パワーはものすごいものですから、裏から手を回したり、ありとあらゆる手をつくし、法律も何も怖いものなしの彼らの社会で探せば、絶対“なせば成る何事 も”と信じきっていました。
 

・ところが現実は

そんなに甘いものではありませんでした。
「とりあえず、観光ビザで来い。道はなんとでもなる」といった彼のお姉さんの言葉を頼りにETASで行ったものの、これといった手立てもなく途方に暮れか けてたところ、お姉さん達に連れられ変なオージーとフィリピン人夫婦のところに相談へ。

何やらすごいやり手でどんな事情でも、なんとでもしてビサをとってくれるという。そのオージーの提案で主人のお父さんをスポンサーに家族のカテゴ リーで申請しようということに。

いざ、申請というときに、突然お父さんが肺ガンに…ショックー!!
ところが、そのオージーの反応は「You are Lucky」と何やらいやらしい笑顔で言うではないか…なるほど、なんでも逆手にとって利用してとってくれるのだなと、信じきっていたというより頼りにす るしかなかったのだが。

なにしろ、あのころはシドニーについて1ヶ月位の時だったから、文化も現実も何もよくわからないまま、ひたすら家族に着いて歩いてるだけ。
結局、英語のわからないお父さんの世話という理由で申請したほうが、お父さんには悪いがもっと有利だというのでそれにて申請。

それで出たのが、ブリッチングビザ。決定が出るまでの期間の仮のもの。
半年後、お父さんは亡くなり、ビザ的には、事実上そこにいる理由がなくなってしまったわけです。その旨をそのオージーに伝えると「You’ll be all right!」の一点張り。
楽観的なオージーにもこういうときばかりは困ったものです。
しかし、藁をもつかむ気持ちですから、一応、大丈夫と言われれば安心して帰るしかない私達でした。今、思うとまぬけですが。。。。

ちょうど一年後、突然、大使館から電話が!!「お父さんは、まだ生きていらっしゃいますか?」……頭をトンカチか何かでガーンと打たれたような、も のすごいショックでした。それから何日後に出国しろというLetterが届きました。
「No problem. Believe me.」を繰り返すその人を信じた私達もバカでしたが、後で調べてみると申請書もめちゃくちゃいいかげんで、それより何よりそのオージーは違法がばれて、 免許を取り上げられ、今はフィリピン人の妻の名でやってるとのことでした。

それからというもの、日本や韓国の情報誌にでているビザ、移民相談と言う文句が出ているあるとあらゆるところ、それこそシドニー中歩き回りました。
おかげでビザに関しては半プロと呼ばれるようにはなりましたが、どこに行っても、ここだといった所はなく、移民局から出て行けと言われた日に、私達は、泣 く泣くシドニー空港を後にしました。

一度、後退したものの、そう簡単に夢はあきらめられるものではありません。
日本に戻った最初の方は、よかったのですが、じめじめ、ごみごみ、こちょこちょした日本にいると、1週間も経たないうちに、あー、オーストラリアに帰りた いって思っていました。そんな、ある日ひょっと立ち寄った本屋さんでUTSのオーストラリアの中高等学校の日本語教師の資格が取れるコースの選考が日本で 行われるというものを見つけました。
韓国でも日本語教師をしていた私はこれだ!!と思いました。すぐに応募して、晴れて入学することに。三十路になった私のこれが最後のチャンスとばかり、勇 んでシドニーへ再突入したのです。
 

・さて、もうその時は、私は

ビザの半プロ。これからが勝負。
ただ、すでにエージェント不信に陥っているのも事実でした。どこのエージェントで聞いても言うことはぜんぜん違うし、人の弱みに付け込んでの商売みたいな 感じ。
シドニー中のエージェントはすでに知り尽くしていたような状況下において、これはもう、自分の力でやるしかないかとも考えました。
しかし、永住権を取るということは、生半可な気持ちでのことではなく、まさに私達の人生が掛かった問題です。もうこれ以上、失敗はできない。これが最後の チャンスだということもあって、やはり、事情通の信頼できるエージェントをなんとか探して見ようということになりました。

最後の力を振り絞る思いでエージェント探しをしたものの、なかなか見つからなかった。 ・・・・・が、ある日、ふとUTSの先輩に相談してみると、「LEIKAに行ってみたら?」とアドバイスをくれた。なんだか先輩からの紹介だったので、信 憑性を感じた。 まして、この知り尽くしているはずの私がはじめて聞く名前。広告にも出ていない、知るひとぞ知るエージェント。
 

・希望が持てた

早速、LEIKAへ。ピンと来た。この人だ。信じられる、ここに決めた! 半プロの私のインスピレーションだった。

それからは、LEIKAの三原さんにおんぶに抱っこ。三原さんは、いつも誠心誠意、答えてくれた。すべての手続きに関して綿密、かつ迅速、正確に LEIKA独特のノウハウで対処してくれました。
今までに出会ったエージェントとは雲泥の差でした。日本人特有な、きめ細かいケアに感動しました。

UTSのコースも無事終了し、永住権待ちのため日本に帰ってからも、常にE-mailで、タイムリーに面倒を見て下さいました。 質問や、何かあったときメールをすると、即効で返事を返してくれました。まさに、土、日も何も関係なく、24時間体制で精神誠意ケアして下さったのです。 不安な時は、励まして下さり……

取得までの8ヶ月間、常に私達の立場に立って真剣に取り組んで下さり、共に考え、喜んで下さいました。本当に、LEIKAに依頼して良かったと、大 満足です。 やはり、永住権取得には、それに見合った資格や条件を揃えるのも大切ですが、 本当に信頼のできるエージェントに出会うことが、より、早く、正確に回り道せず、目的を達成できる秘訣だと思います。(決してゴマすりではありません。)

ここに書き切れなかった、紆余曲折な無駄な苦労をし、回りまわって、やっとたどり着いた私の正直な感想です。 最初から三原さんに出会っていたらこんな無駄な時間と努力をしなくてもよかったものの・・・・・

皆さんは、くれぐれも、無駄な苦労をなさらないで下さい。 そして、本当にオーストラリアが好きで、住みたいと思っている方。一日も早くいっしょにEnjoyしましょ!

日 本在住、ISさん35歳 (2001年1月取得)
 

私は 2001年ミレニアムの幕開けにふさわしく 念願の永住権を取得できました。これまでの過程を振り返ってみたいと思います。
 

永住ビザがあったら…

私は 26歳の頃 初めてオーストラリアに語学留学で来ました。半年と言う短い間でしたが 青い空と海 また オーストラリア人のフランクさにすっ かり魅了されてしまいました。日本に帰国をしてから 日本語教師として働いていたのですが 毎日の繰り返しに教師として次第に行き詰まりを感じ また 時 間的にも不規則な勤務状態に 心身共に疲れていました。

ある日 オーストラリアに住んでいる友人から シドニーにある大学院で 日本語教育を学べる1年のコースがあることを聞きました。
調べてみると 卒業すれば グラデゥエート・ディプロマを取得でき 日本語教師として オーストラリアで就職できるかもしれない、そんな甘い考えを持ちな がら 1999年2月 再びオーストラリアに渡りました。

それから 学生生活にも慣れ半年が経ちました。学校では卒業進路について よく 話題が上りました。大学の講師の方や先輩の方々にお話をいろいろ  聞きましたが 永住権の有無により 進路は大きく違ってくることが 次第にわかってきました。それでも 負けず嫌いの私は どうにかオーストラリアで働け ないだろうかと いろいろな学校に履歴書を送ったり 何度かインタービューにも行きました。
しかし 完敗でした。いくら 日本語教師としての経験があるといっても オーストラリアでは ありませんでしたし 永住権を持っていないことは 致命傷で した。

そこで 私も永住権が取得できないだろうかと考えるようになりました。しかし いろいろな知り合いに相談をしましたが 決まって 皆は 結婚以外は 難しいんではないかと 言うだけでした。 
これが 現実なんだと 自分の考えの甘さに落ち込んでいた頃 ある友人から 朗報が舞い込んで来ました。移民法が7月で改正されるので 以前より永住権が 取り易くなるらしいと…

それから 私はインターネットで 移民法の改正について調べてみたのですが サイトを見ても 専門的な用語が多く 理解する事は困難でした。思い きって シドニーにある某コンサルタント事務所を訪れることにしました。そのコンサルタントの方は 私の履歴書をさっと見て おそらく 取得はできるで しょうと おっしゃいました。ところが 私が2-3質問してみると 歯切れが悪く 何か専門書のようなものを見ながら 回答が返ってきました。
私は 大事な永住権の申請をお願いするのに どうも信頼が持てなかったので そのオフィスは 二度と訪れませんでした。
 

レイカとの出会い

10月に入り卒業が間近かになり 私はオーストラリアにもう少しいたいという気持ちが強くなっていきました。それには やはり 永住権を申請しなけ ればならない。その時点で 私は既に35歳でしたので 年齢的にも失敗は許されませんでした。そんな頃 大学の同級生に自分の気持ちを話してみると 経験 もあり 信頼できるコンサルタントの方を知っているので 一度 オフィスに行って 話しを聞いてみたらどうかとアドバイスをしてくれました。
それが レイカさんと私の出会いでした。

オフィスに行って 履歴書を見せ 私の経歴を十分検討してくれた結果 申請できるという返事でした。ただし コース終了後半年以内にビザ申請をする ことで 職歴は免除されるというものでした。
NOOSRに申請して審査に約3ヶ月かかり それから また 大使館のほうに書類を提出しなければならないので 時間的猶予があまりありませんでした。
これは 初耳でした。以前行った某コンサルタント事務所では 時間的なことは何もおっしゃっていなかったので もう少しレイカさんのところに行くのが遅け れば 私は 永住権の申請さえもできませんでした。ああ?危なかった…
とにかく 自分の納得するまで お話をしてくれるレイカさんに早速お願いする事にしました。
 

予期せぬ出来事

それから ほとんどの書類は レイカさんが作成をしてくれ 私はサインをすれば いいだけだったので 手続きは順調に進みました。ただ 私の場合  34歳を超えていたので IELTSで 20ポイント取らなければなりませんでした。つまり スピーキング ライティング リスニング リーディングがそ れぞれ6.0以上獲得しなければなりませんでした。

本来 楽観的な私は ジェネラル バージョンだし 簡単に獲得できるだろうと思っていました。ところが いざIELTSの受けてみると 緊張してし まい 舞い上がってしまいました。というのも 平均ではなくそれぞれ 6.0を獲得しなければ永住権は取れないというプレッシャーが 重く圧し掛かってし まったのです。
みごと テストの1回目は失敗…2回目も 4項目のうち1項目落としてしまい 周りの友人が IELTSを難なく クリアーしている中 私は 焦燥感で一 杯でした。
そんな時でも レイカさんは いつも 親身になって 励ましてくれました。送って頂いたIELTSの合格者の体験談はとても参考になりました。
そして おかげで どうにか 私もめげずにクリアーする事ができました。

それからは 順調でした。そして 今年の1月 やっと 念願であった永住権を取得できました。
永住権取得までの間 本当にレイカさんには お世話になりました。
私が 取得できた 理由は2つあると思います。

1つは 移民法は正しい情報を得る事だと思います。移民法については いろいろな噂が流れるものです。また 既に取られた方の話しを聞くことも参考 になりますが 移民法は よく 改正もされます。その時 その時の状況判断は とても大切でこれは 時には専門家の方でないと無理だと思います。

2つめは どんな状況であれ あきらめずに希望を持ってがんばることだと思います。

この一年間のレイカさんのサポートに大変感謝しています。

日 本在住、HWさん29歳 (2000年9月取得)

私は日本語教師になる事が高校時代からの夢でした。なぜオーストラリアかといえば、小学生の時に親の仕事の関係で、3年ほどメルボルンに住んでいた 事に端を発し、高校での交換留学生活であちらの虜になりました。

私は昨年、シドニー工科大学に留学し、日本語教育グラデュエート・ディプロマコースを修了、オーストラリアの教員免許を取得しました。オーストラリ アで教職に就く為には、永住権を持っている方が非常に有利になるし、また州によっては、持っている事を求められる所もあります。
オーストラリア移住を昔から考えていた私は永住権の申請を常に頭に入れていました。そんな訳で、私は永住権の申請を自分で行なった先輩の話を聞き、自分で もやってみたいと思っていました。
 

・考えの甘さ

しかし出鼻を挫かれたのが申請に必要な書類の多さ&紛らわしさ。ほんの1年前に申請した先輩の時に必要だった書類と、今必要な書類が違う!しかも同 じ書類でも書式が違っていたりしました。そんな折、申請の難しさの愚痴を、大学のクラスメートや先輩にこぼしていると、レイカさんの名前を聞きました。あ る友人は、既にレイカさんに申請代行の依頼をしていたので、情報の的確さ、親身になって考えてくれるといった事を聞き、私もお願いする事にしました。

レイカさんとの連絡はほぼ全てメールで行なっていましたが、その迅速さ&処理の早さには正直驚きました。また、「何をするのにどれ位の時間がかかる か」、「大使館から書類が届くのはXX日位になります」との情報は、的確で小心者の私としてはとても助かりました。
 

・出遅れ

「1999年7月から移民法が変わって、オーストラリアの教育機関で1年以上のフルタイムコースを終了し、準学位や学位を取得した者が、コース終了 日から6ヶ月以内にビザ申請をすれば、申請する職業の職務経験が免除になる」という事で、職務暦が不充分だった私には有利に働きました。しかし申請代理を 依頼したのが2000年1月。全ての書類を用意するのに残された時間は余りありませんでした。
最初は自分で申請しようと思って集めた書類も、実は全く必要のないものであったりフォーマットが違っていたりして、「最初から依頼しておけば良かった」と 思ったのは一度や二度ではありません。また、永住権申請に関してはまことしやかな噂が流れており、そういったものよりも確実な情報ソースがある事が大切だ と思いました。的確な指示の元、着実に必要書類を揃える事が出来、デッドラインの「コース終了日から6ヶ月以内」に間に合わせる事が出来ました!
 

・結婚の問題

申請代行をお願いした時に、私には婚約者がいました。当初、私は自分の永住権が取得出来てから結婚して妻の分の申請を、と考えていました。将来的に は結婚&共に移住という事になるので、その事を相談すると、「籍を入れ、一緒に申請すれば配偶者として同時に永住権を取得できますよ」とのアドバイス。結 果的には妻(になった)も同時に永住権を取得出来、妻の分の申請プロセス全ての時間、手間、費用も丸々省く事が出来ました。  
 

・骨折り損のくたびれ儲け

事件は突然起こりました。2000年4月30日に左足を骨折してしまいました。永住権を申請しているこの大切な時期にエラい事をしてしまったと慌て てみても後の祭り。。
レイカさんより「この件で申請が却下される事はない」との連絡を頂き、ホッと胸を撫で下ろしました。健康診断はまだ提出していなかったので、通常のものに 骨折治療医の所見を添付して提出しました。大使館側から何も連絡が入らないので特に問題ないのだろうと思い、日本へ渡り、最終確認の書類が届くのを首を長 くして待っていました。

しかしどんでん返しが待っていたのでした。大使館からの「健康診断の再診依頼」の連絡が入って来ました。この時、私は無給休暇で仕事を休んで日本に いたので、一刻を争う状況でした。そんな事情をレイカさんはくんで下さり、いかなる時にも連絡出来る様、ホットラインを設けて下さいました。
健康診断を受けたのがオーストラリアでしたので、「健康診断の為だけにオーストラリアに行かにゃならんのか?」と、一瞬パニックになりましたが、そうせず に済む方法をレイカさんより教えて頂き、再診も非常にスムーズに行なえました。

そして2000年9月、ようやく永住権のビザが貼られたパスポートを手にする事が出来ました!
振返ってみると、足の骨折で大使館でのプロセスがもうちょっとと言うところで遅れてしまいましたが、それを差し引けば随分とスムーズに事は運んだと思いま す。また、自分で申請していたならどれ位の時間が掛かったか分からないし、多分妻の永住権もとれていなかったでしょう。只々レイカさんに感謝です!そし て、これをステップに、オーストラリアでより一層活躍して行きたいと思います。

日 本在住、NFさん35歳 (2000年8月取得)

・ オーストラリア移住の夢

私はコンピュータ会社に勤務する35歳のシステムエンジニアです。オーストラリアとは縁もゆかりも無い生活を送っていましたが、数年前、とある共同 プロジェクトの為にシドニーのソフトウェア企業に派遣されたことがきっかけとなり、妻ともども「何とかオーストラリアで暮らすことはできないだろう か....」と夢見るまでになりまし
た。

ビザ関連の書籍/インターネットを調べまくり、数あるビザカテゴリの中で、独立移住ビザの存在を知りました。「業務で少しだけオーストラリアと関連 したことがあるだけで、あとは日本コテコテの生活をしているサラリーマンが独立移住ビザなんて大それたものをとれるわけがない.....」と半ば諦めの思 いを抱きつつも、「日本でごく普通に生きている限り、オーストラリアの企業にスポンサーシップを頼るつてなどないのだがら、独立移住ビザが唯一のチャンス に違いない!」との考えに至り、ビザ取得可能性について調べてもらうことにしました。

・ レイカさんとの出会い

インターネットやさまざまな書籍でビザコンサルタントを調査し、まず最初に、レイカさんとは別のコンサルタントに査定を依頼しました。このコンサル タントはいろいろな書籍に広告も出しており、ある程度大手で安心そうだと判断したためです。1999年4月初旬履歴書を郵送し、結果を待ちましたが、一向 に回答がありません。電話で問い合わせたところ、「送付していただいた資料はオーストラリアの現地事務所で査定しておりますので、どのくらい時間がかかる かわかりません。今しばらくお待ち下さい。」とのこと。対応にも誠実さを感じられなかったため、このコンサルタントに対して不信感を覚えざるを得ませんで した。

そこで、信頼できるコンサルタントは他にないものだろうかと再度検討し直し、レイカさんにも同様の依頼をすることにしてみました。他の体験者のみな さんも指摘されていますが、レイカさんのホームページの情報は質量とも充実しており、かつ、そのタイムリーな更新にレイカさんの「やる気」を感じたからで す。1999年4月下旬メールで査定をお願いしたところ、「IT関連職種でビザ取得の可能性が高い」「1999年7月以降の新システムで申請すべき」との 回答を即座にいただきました。思った以上の誠実かつ迅速な回答にうれしさと感謝の気持ちがあふれ、「ここにお願いするしかない!」と直感しました。

こうして、新システムが施行された直後の1999年7月初旬、正式にレイカさんにビザ取得代理申請をお願いしました。
なお、最初のコンサルタントからは、依頼してから約1ヶ月半後の5月下旬に文書で回答が送られてきましたが、申請職種等あまり的確とは言えない内容で「や はりレイカさんに査定をお願いして良かった」と改めて痛感する結果となりました。

・ IELTS

ビザ取得の第一歩として、まずIELTSに着手しました。ビザ査定の回答をいただいた後、早速情報集めを始めたのですが、ちまたに数ある TOEIC/TOEFL関連書籍と異なり、IELTSに関する書物についてはそれなりの大型書店であっても1,2種類ほどあればいい方でした。

ブリティッシュカウンシルでも入手できるテキスト全てを購入しましたが、「これだけでは短期間に十分な対策がとれないのでは....」と不安にな り、結局、IELTSのシステムを良く知る英語学校を探し出し、独学では難しいと思われるWritingとSpeakingについてレッスンを受けること にしました。
トータルで約10時間ほどの短いレッスンでしたが、IELTSのキーポイントを集中的に学習することができ、最初の受験(1999年8月29日)で無事 Overall7.5を取得することができました。
 

・ 職業認定(ACS)

続いて職業認定です。私の場合、現職のシステムエンジニアとしての認定が必須となりますが、11年に渡る職歴こそあるものの、大学での専攻が全く別 (工学部だが化学系)だったため、そのギャップをいかにうめるかが最大のポイントでした。さらに、新システムでは、NOOSR(National Office of Overseas Skills Recognition)に代わり、ACS(Australian Computer Society)がコンピュータ関連職種の認定を新たに担当することになり、どのように評価を行うのか未知数であるという点も気になるところでした。

こうした状況の中、レイカさんからは「今までの実績を最大限に示せるよう、考えられるもの全てを準備してください!」との厳しい指示を受け、夏休み を返上して、提出書類の作成に明け暮れました。

1999年9月23日、「もうこれ以上何もしぼり出せない(ほとんど悲鳴?)」くらいの資料とともに、ASCOコード2231-19の Systems ProgrammerとしてACSに申請を行いましたが、思った通りすんなり行かないのが世の常。ACSから「大学で取得している情報処理関連学位が少な いので標準申請では受け付けられない。かわりにRPL(Recognised Prior Learning)で申請しなさい。」との回答があったのです。

RPLとは、情報処理を専攻していない人間が職務実績からその専門性を認定してもらう制度で、私にとっては、超えるべきハードルが一段高くなったよ うなものでした。「やはり大学の専攻と現職の違いをうめるのは難しいのだろうか...」と意気消沈しかかった私でしたが、レイカさんの「長い職務実績があ るのだから、大丈夫!」との叱咤激励を受け、何とか気を取り直して追加資料を準備しました。

RPL申請したのが1999年10月5日で、あとはひたすら待つこと6ヶ月。2000年3月30日、Systems Programmerとして認定されました。「実績を評価してもらえるだろうか??」と不安に思い続けていた半年間だっただけに、認定を受けた喜びはひと しおだったことは言うまでもありません。
 

・ ついにビザ取得

最大の懸案であったACSの認定クリア後は、きわめて順調なビザ取得までの道だったと言えます。
2000年5月28日オーストラリア大使館にビザ申請してから、約3週間で120ポイント確定の通知を受けました。その後、健康診断や無犯罪証明書提出を 経て、ついに2000年8月3日、念願の独立移住ビザをこの手にすることができたのです。

ビザ代理申請を依頼してから1年と1ヶ月。この間、レイカさんからは的確で真摯な(そして時には熱い)サポートをずっと続けていただきましたので、 少しオーバーな言い方かもしれませんが、自分とレイカさんとの二人三脚でレースに勝ったような気持ちすらしております。

独立移住ビザ取得という大きな成果を達成するには、本当に信頼できるコンサルタントとの出会いが不可欠です。おそらく、最初に査定を依頼したコンサ ルタントと話を進めていたら、全く違う結末になっていたことでしょう..... そう言う意味で私は本当に幸運でした。

レイカさん、どうもありがとう!!

VIC 在住、MIさん35歳 (2000年7月取得)
 

夢が一つ実現しました。?(~o~)/
 

1999年2月末・・・新しい生活のスタートだけど、少し弱気な気持ちでシドニーにおりたちました。
「1年後に仕事がみつからなかったら、潔く諦めて日本に帰るしかないな・・・・」

来豪目的はシドニー工科大学留学。日本語教育グラデュエート・ディプロマコースで、オーストラリアのセカンダリースクール(日本の中学、高校)で日 本語を教える資格を取得すること。卒業後はオーストラリアで日本語を教えたい! でも、卒業後にオーストラリアで仕事を見つけることは、永住権がない限り かなり難しい。

それは、日本にいるときから聞いていました。永住権がないと、オーストラリアで働くには労働ビザを取得しなければなりません。そのためには、まず仕 事探しから始まって雇用主にスポンサーになってもらうこと。スポンサー側にも雇用に当たってはいろんな煩雑な手続きが必要で、そんな面倒くさいことをする よりも、すでに永住権をもっている人を雇うほうが簡単ということで、たやすく労働ビザを取得してオーストラリアで働けるなんて、とても難しいことと思いま す。ですから、コースが始まったときは、期待よりも卒業後の不安の方が大きいというのが正直な気持ちでした。

コースが進むにつれて、卒業後どうするかをいやでも考えなければならなくなり、同じコースで勉強している友人や過去にこのコースを修了した先輩、 コースの講師の方々と話をしてみました。やはり、コース修了後すぐにオーストラリアでフルタイムの仕事を見つけるのは、本当に難しいという感触でした。

でも、1年間勉強してグラデュエート・ディプロマを取得して日本に帰っても、日本にはない制度だから日本では認められないという、なんとも悲しい現 実が目の前にありました。そこで、「最終的には日本に帰ることになった時のことも考えて、日本でも、いや世界中で通用する修士号を取ろう!」そう決心し、 2000年はオーストラリアで修士号取得のために勉強することにしました。

1999年2月末に来豪してから、「あぁ、永住権をもっていたらなぁ・・・」と思うことは数え切れないほどありましたが、日本で事務職の経験しかな い私には、独立移住ビザでは一番大切な技能のポイントが取れないので、到底無理だと思っていました。

そんなとき、「1999年7月から移民法が変わって、オーストラリアの教育機関で1年以上のフルタイムコースを終了し、準学位や学位を取得した者 が、コース終了日から6ヶ月以内にビザ申請をすれば、申請する職業の職務経験が免除になる」という話を耳にしました。
「もしかしたら、私にもチャンスがあるのかもしれない?!」と思いました。
それからは、いろいろな話が耳に入ってきてかえって混乱してきました。

可能性があるかもしれないけど、本当のところはどうなのか自分では判断できません。
同じような条件でも一人一人微妙に違うから、「あの人が大丈夫だったから私も」というふうにはならないという話を聞き、「永住権を取れる可能性があるのか どうかはっきりさせよう!」と友人から紹介されたレイカさんに査定をお願いしました。
それは、1999年11月後半のことでした。結果は、110ポイントのパスマークぎりぎりでクリアできるということ。

肝心の「資格」を証明するディプロマがオーストラリアの大学では、コースが修了してもすぐには授与されず、ほぼ半年後になってしまうので、 NOOSRの技能審査がペンディングになってしまうのではという点がネガティブでした。

私は、コース修了後は大学院の修士課程でもう1年勉強することがすでに決定していたので、時期がずれたとしても修士号取得後の2001年に申請する ことも可能でした。ただその間にパスマークが上がってしまったら、110ポイントの私はパスマークにとどかない・・・・どうしようか?

それから10日ほどして、レイカさんから緊急連絡が入ったのです。その日私は朝早くに自宅を出ていて、レイカさんが電話をくださった9時には留守で した。そこで、レイカさんは私の友人に連絡を取って、その友人が私にメールで連絡を取ってくれました。
メールを読んだ私は、急いでレイカさんに電話しました。すると、先の査定時にネガティブだった事項がクリアできる方策があるので、今すぐに準備を始めて 2000年に申請できますよ」という知らせでした。

私に直接連絡がとれなかったからと、親身に友人を介してまで、緊急で連絡をくださったレイカさんなら信頼してすべて任せられると、その後すぐにオ フィスに伺って正式に申請代行をお願いしました。その数日後に日本へ一時帰国することにしていたので、まさにグッドタイミングでした。

その後、レイカさんの書類の準備、NOOSRおよび大使館への書類提出、結果の督促等、すべてにおいて期待通り、いや期待以上の迅速さで対応してく ださったレイカさんには、本当に感謝しています。

ビザ発給に伴う日本への一時帰国の時期も、ちょうど大学の休みと重なって後期の授業開始に合わせて、オーストラリアに戻ってくることができました。 しかも、後期の登録締め切り日前に永住権を取得できたので、後期分だけではありますが留学生と現地の学生との学費の差額払い戻しも受けることができるとい うボーナスがつきました。

およそ6ヶ月での永住権取得・・・絶対に夢のままで終わるだろうと思っていた永住権の取得が、現実となった今もまだ「いつか覚めてしまいそうな」気 がしています。

欲張りでしょうか?次の夢へと夢探しに出かけます。

VIC 在住、SYさん30歳(申請時29歳) (2000年6月取得)

これからが私のオーストラリアでの人生のスタートです。?(~o~)/

私が始めてレイカさんのオフィスを訪れたのは、1999年の10月のこと。
当時の私は、シドニー工科大学で応用言語学修士課程の修了を12月に控え、翌年の就職活動をどうしようかと迷っている時期でした。
いろいろと考えをめぐらせたあげく、出した結果は永住権を取ろう!それしかない (-_-)

永住権を手に入れれば、就職だけでなく、今後の選択肢が広がるというのが主な動機です。雇用者との、ビザのスポンサー・シップという関係に縛られる ことに非常に抵抗を感じていた私としては、当然と言えば当然の選択だったのかもしれません。

私が最初にオーストラリアに来たのは、1997年2月。当初は英語の勉強と、かねてから興味を抱いていた日本語教師になるための知識・資格の取得が 目的でした。語学と語学教育について学習をすすめるにつれて、オーストラリアでの就職を夢見るようになっていく自分を発見することは、さほど時間のかかる ものではなかったと思います。
ただし、その頃からビザの取得という大きな壁が目の前に立ちはだかっていて、けして明るい将来とは言えなかったかもしれません。
永住ビザがないと、人材会社でも取り合ってもらえないし、会社からの引き合いもないのですから。(T_T)

正直なところ、オーストラリアに残ることができるとは、希望を持ちながらも可能性としてはあまり考えてはいませんでした。
実際、私が修士課程への進学を決心したのは、日本への帰国を考慮に入れたうえで、日本でも通用する学位もしくは資格を取得する必要性を感じていたというの が大きな理由でもあります。
また、運良くオーストラリアで就職できたとしても、中学・高校だけではなく、成人教育にも携わることを志望していた私には必要なことでもありました。 (@_@)

そして修士課程も半ばの1999年7月、移民法に改定があり、これは行けるぞーと感じました。(*_*)
目を瞠るべき変更点は、オーストラリアの大学での1年以上のフルタイムコースで準学位又は学位終了後、6ヶ月以内にビザ申請をすれば選択した技能職の職務 経験がなくても技能ポイントの対象になるというものでした。

そこで私が始めたことは、信頼のおけるエージェント探しです。幸い、すでにレイカさんを通じて永住権を取得した友人から話を聞いていたので、レイカ さんの存在は知っていました。
自分で申請手続きをすることも考えてはみたのですが、私の性格からして複雑な諸手続きに弱い自分を知ってましたので、慎重にエージェントを選ぶことが大事 と考え、まずインターネットでいろいろなエージェントについて調べることにしました。
最初にレイカさんのサイトを開いてみました。非常に詳しく最新情報が掲載されていることに感心したというのが第一の印象です。そして、更に他のエージェン トのサイトに行ってみると、そこには古い情報がそのまま載っていたり、情報が曖昧なものであったりと、個人的に信頼をおけるとは言いかねる内容のものばか りでした。

常に最新の情報を提供するレイカさんの姿勢は、そのサービスの信頼度とクオリティの高さを物語っていると判断し、レイカさんに永住権の代行申請を依 頼することを決心しました。そして実際に初めてレイカさんを訪れた時、法律書のようなとても厚い本を私に見せながら質問に答えてくれるその姿勢に、本当に 信頼できると確信し、申請を依頼したのです。

全ての手続きは、レイカさんにお願いしていますので、教職の教育資格をもつ私には、"Secondary School Teacher"がマッチする技能職ということで、NOOSRの技能認定も終え、最高の60ポイントを取得。年齢も29歳で30ポイント、英語能力でも IELTSの必要基準(15ポイント)を満たし20ポイントを取得することができました。
ここまでの合計で110ポイントというパス・マークに達し、更にフルタイムの学生としてオーストラリアの大学で1年以上就学した者に与えられるボーナス5 ポイント、日本での学位に対して与えられるボーナス5ポイントを追加し、合計120ポイントになり直ちに大使館へのビザ申請が開始されました。

その後の手続きに関しては、私が考えていた通り、誠実で丁寧であったことは言うまでもありません。申請が進むにつれて出てくる新しい疑問にも、常に 迅速で確実な返事をしていただきました。私の場合、現在ビクトリア州で日本語アシスタント教師として学校に勤めているため、ビザ発給のための日本への一時 帰国のタイミングが問題となっていたのですが、幸いなことに、オーストラリア大使館からのポイント確定ならびに無犯罪証明書と健康診断書を提出することを 指示する内容の手紙と、前もってメルボルン領事館を通して申請していた犯罪証明書の到着の時期がほぼ同時になり、円滑に手続きを進めることができました。
そして、ちょうどスクール・ホリデー中の2000年6月に日本に帰国し、永住ビザの発給を受けてきたのです。

レイカさんのおかげで、1999年12月のNOOSR技能認定開始から、2000年6月末日付での永住ビザ発給という、スピード取得でここに待望の 永住権を獲得することができました。?(~o~)/

現在は、アシスタント教師としての仕事を続けていますが、同時に新たなステップを求めて求職活動を進めています。

最後に、レイカさんと、レイカさんを紹介してくれた友人に感謝したいと思います。

私に新たな可能性を与えてくれた大切な友人たちです。ありがとう。

東 京在住、TYさん45歳(申請時44歳) (2000年6月取得)
 

待望の永住ビザがついに(^o^)/

私がオーストラリアへの移住を具体的に考え始めたのは1998年12月頃^^^^

その時の私は既に43歳半ばを過ぎていました。独立移住ビザを目指していらっしゃる方はご存知だと思いますが、独立移住ビザの申請ができる年齢上限 は満44歳まで。
したがって、私の場合は、年齢が20代、30代の若い方々とは違って時間的余裕はなく、45歳の誕生日を迎える2000年5月までにビザ申請することが絶 対条件でした。

果たして44歳になろうとする中年(^_-) メカニカル・エンジニアが、ポイント制の独立移住ビザを本当にとれるのだろうか?と不安になりまし た。そこで『永住ビザ』とか『豪州永住』とかいったキーワードインターネット検索で手当たり次第調べまくっているうちに、偶然、出くわしたのがレイカさん のホームページでした。レイカさん以外にも豪州ビザエージェントやそれまがいの代行業者のホームページや広告をいくつか見つけましたが、レイカさんほど詳 しく豪州ビザについて的確な説明がなされているところは他にありませんでした。

年も明けて正月気分も抜けた1999年1月中旬頃、レイカさんに簡単な履歴書を送って査定を依頼しました。
依頼した翌日すぐ答えをもらい、まずその回答の速さにビックリ(^ー^) 
さらに独立移住ビザがとれる可能性があるという査定で二度ビックリ(^ー^)(^ー^))。
ただし、その時点(1999年7月以前)でのポイント制では、例えIELTSで最高の20ポイント取ってもトータルで105ポイントにしかならず、当時の パスマーク110ポイントに及ばないけれど、2000年7月から施行される予定の新ポイント制ではパスマーク110ポイントに届くということでした(^_ -)。

そこでポイント制の中で唯一点数が稼げる英語能力テスト、IELTSテスト受験を申し込み、3月中旬に受験しました。
約3週間後に来た結果は、WritingがBAND 5であった以外は全てBAND 6で、OVERALL BAND 6 。つまり英語能力15ポイントでなんとか首の皮1枚でつなげることができました。間髪入れずにレイカさんにビザ代理申請をお願いし、あとはレイカさんのア ドバイスに従って書類を揃えさえすれば年内には取れるかな、なんて気楽に考えていました。

1999年4月末頃、移民省の大臣がパスマークを5点引き下げた(110点から105点に)ことにより、年齢点の低い私にとっては最高の条件となり ました。いくら猫の目のように変わる豪州移民法とは言っても移民大臣のアナウンスメントの内容からすると、しばらくはそのパスマーク引き下げ政策を変えな いだろうと安心していました。
ところがそれもつかのま^^^^  実はここからが山あり谷あり(少なくとも私にとっては)の・・・・・・・始まりでした。

なんと4月に下がったばかりの105点のパスマークがわずかたったの2ヶ月でまた110点に戻ってしまったとのこと。
実は7月からの新ポイント制に移った段階で私のポイントは105点でぎりぎりでした。それは当初見込んでいたMODLからメカニカル・エンジニアが外れて しまい、貴重な5ポイントが加算されないことになったからです。
そうなると残る手立てはIELTSテストを受け直して現在のポイント15からポイント20に上げる以外ありません。それにはIELTSの4項目全部で BAND 6以上をとらなければなりません。
前回のIELTSも、まぐれでぎりぎりOVERALL BAND 6。即刻9月初旬のIELTS受験を申し込みました。第一の試練

2000年7月からのポイント制では、メカニカル・エンジニアはビザ申請に先だって、まずIEAustというエンジニアリング協会の技能認定を受け ることが必要でした(7月以前の旧法では技能認定前でもビザ申請できました)。 ただ、その技能認定申請様式は、既に新ポイント制に移っている7月になっ てもまだ出来ておらず、従来様式のままで出すようにとのIEAust指示に従い、1999年7月23日にレイカさんを通して従来様式で技能認定申請を行い ました。
ところが8月20日にまた次の試練が襲ってきました。なんとせっかく苦労して出した技能認定申請関係書類に加えて、今回新たにCDR (Competency Demonstration Report)なるものを出せとのIEAusttからの指示。しかも、IELTSテストでは4項目全てBAND 6以上でなければならないと明記されていました。いずれにしろIELTS テストで4項目全てBAND 6以上をとらないと先に進まないし(-_-;)  第二の試練

そして、第三の試練がすぐに・・・・ 忘れもしない10月2日土曜日、受け取ったIELTSテストの結果は全項目BAND 6以上どころか、なんと前回よりも悪い評価になってしまいました(-_-;)
目の前真っ暗です。IELTSテストは前回試験日から90日以上経たないと再受験できないことになっています。つまり、私の場合、再々受験できるのは12 月12日以降なのです。

と言うことはIEAustから提出要求があったCDR を出しても、IEAust技能認定は所定のIELTSスコアをクリアするまでHOLDされ、従ってビザ申請も出来ないまま誕生日が刻々と近づくという最悪 の状況になってしまいました。 早速レイカさんに相談したところ、年内にもう一度IELTSテストを受験して所定のスコアを取得すれば、IEAustへ優 先審査依頼をしてなんとか45歳になる前にビザ申請できるとの励ましを受け、私もまだ可能性が残っているなら、ということで12月12日のIELTS再々 受験に賭けることにしました(^.^)

1999年12月24日金曜日、その日は週末でクリスマスイヴということもあり、珍しく早めに会社から帰宅すると、12月12日に再々受験した IELTSテストの結果を知らせる郵便が届いていました。

実は12月12日に受験後、私自身の感触はあまり良くなかったので、レイカさんに相談して、IELTSのBAND 6以上という要件を PENDINGにしたまま駄目もとでIEAust技能認定を進めてもらおうということで、CDR提出準備をしていました。英語能力以外の技能認定を先に進 めてもらえれば、英語能力で所定のスコアを採った時点で即ビザ申請できる、つまり、ロスタイムを無くして何とか私が45歳となる5月前にビザ申請に持ちこ みたいというのが狙いでした。

封筒を開けると果たして結果は、Listening 6.5, Reading 7.0, Writing 6 & Speaking 6で Overall 6.5  

まさにクリスマスプレゼント!! 神は見捨てなかった((((((^_^;)

それから先は順調でした(^_-)

1999年12月31日
レイカさんの多大なご協力を得てIELTS TEST REPORTとCDRをIEAustに提出

2000年 2月28日
IEAustからメカニカル・エンジニアとしての技能認定取得

2000年 3月16日
大使館へビザ申請(これで45歳前に申請できてひと安心!)

2000年 4月07日
大使館から指定病院での健康診断受診と無犯罪証明書提出の指示

2000年 5月01日
東京の指定病院で家族3人健康診断受診

2000年 5月11日
無犯罪証明書入手(私と家内の分)し、大使館へ送付

2000年 5月31日
5月16日付の大使館より家内の英語教育費16万円を支払うよう指示に従い郵便為替で支払い(家内は英語能力不足だったからです)

2000年 6月07日
大使館よりビザ認可されたのでパスポートを大使館に送るようにとの通知来る

2000年 6月10日
家族全員のパスポート、申請内容に変更無い旨の確認書、移住動向アンケート返信用切手と封筒を大使館へ書留送付

2000年 6月14日
待望のビザシール(6月12日付発行)を貼った家族全員のパスポートを入手(^o^)/
 

最初の取りかかりから約1年2ヶ月でついに待望の永住ビザ取得 ワーイ(^o^))/…((^0^)/ワーイ
忙しい仕事の合間にいろいろあった中で、何度か挫折しそうな危機に陥ったこともありました。 そのたびにレイカさんの的確なアドバイスとサポートをいただいたことで、ここに独立永住ビザを取得することができました。
もしサラリーマンである私が、自分ひとりだけで取得しようとしていたら、とてもこのような成功体験記を書くことなど出来なかったでしょう。

オーストラリアへの橋にワンステップ、自分の技能を発揮できる職場で働くのがこれからの本当の意味での挑戦です(^0^)/~~ be happy

シ ドニー在住、TTさん35歳 (1999年12月取得)

1998年12月、ほんのすこし早いクリスマス、私は念願のステータスを手に入れることができました。(^_^)_U

全ての始まりはレイカとの出会いでした。友達が「レイカで引き受けてもらうことができたら大丈夫よ…・」と教えてくれたからです。
自分の永住権の可能性を知るために、レイカのドアをたたいたのが1998年7月末。8月末に申請、永住ビザはなんと申請から4ヶ月でおりました。
(◎_◎)

私がオーストラリアに始めて来たのが1997年3月。シドニーにある大学院のグラデュエ?ト・ディプロマコースで日本語教育を学ぶためでした。
コースを選ぶ段階では、アメリカ・カナダも考慮に入れていましたが、日本語学習者が多く、その後の就職に少しでも有利な環境を求めてオーストラリアに決め ました。

分かっていたことですが、卒業後の就職口を探すのは大変でした。というより、見つけることができなかったのです。「オーストラリアで就職するために は労働ビザが必要で、労働ビザを取得するためには就職口が必要」という矛盾を感じる条件の壁の前になす術がありませんでした。
職種を選ばずにいたなら仕事を見つけることができたかもしれませんが、自分の将来のキャリアにプラスになる仕事を探していた私は、自分に合っていない仕事 をする気になれず、学生ビザを延長し就職口を探していました。

この時期、私が日本で働いていた英会話学校の先輩が永住権の具体的な情報を教えてくれました。彼はオーストラリアへの移住を考えているということ。 独立移住というカテゴリーがあり、私の前任者としてSchool Managerをしていた彼は、”Education Manager”のタイトルで申請するとのことでした。
実は、このとき初めて独立移住で永住権を申請できると知ったのです。
しかし、計算して見ると、当時33歳の私は年齢で25ポイント、IELTSの英語は問題無いとして20ポイント。職歴・技能は学位があるので60ポイン ト。
合計すると105ポイント・・・・。合格ポイントであるパスマークの110点に5点足りない……残念。
 ^O^ アーーーーーーン!

そんな時です。新聞で1998年7月からジェネラルポイントに改正があり、オーストラリアで1年以上のフルタイムコースで準学位(ディプロマ)以上 の教育資格を取得すると5ポイントのボーナスポイントが加点されるという記事を発見。永住権の可能性があるかも知れないと思い、とあるビザコンサルタント に連絡を取りました。
「そのことはまだはっきり決まっていません、いつから施行されるかもわかりません…・。」そんな答えが返ってきました。
……・こんどは絶望(-.-) !?
 

私の場合、現在(1999年7月に施行された大幅改正)のジェネラルポイントではなく、1999年6月末までのものでしたので、そのときの申請条件 は、「ビザ申請時から遡って過去2年間で半年以上の職歴が必要」とあり、私の場合それを満たすためには1998年8月末までに大使館へビザ申請をする必要 があったので、じっくり構えるような時間の猶予は無かったのです。

しかし、7月中旬、友達から「移民局で聞いたんだけど、法律がかわったみたいよ…・・・。」との連絡。
そして、「申請するならいい人を知っているわよ、引き受けてもらえたらきっと大丈夫よ」と。
申請できるかどうかハッキリさせようと、アポを取りレイカを訪ねました。”Education Manager”の職種で申請する予定であると伝えたら、「難しいですね…・・」との返事。
……・ガックリ、断念(^▼^)

ところが翌週、レイカから連絡がありました。私の経歴を充分検討してくれた結果、”Education Officer”という職種なら可能性がありますとのこと。
このとき決めました。「こんなに親身なって他人の将来を考えてくれるところは今までになかった。こちらでお世話になろうと。」
…・・来運 (^_^) (^◆^) (^◇^)

今から振り返ると、私はすごくラッキーだったようです。法律の改正が全て私に有利に作用しました。そして信頼できるプロフェッショナルに出会えたこ と。
レイカがその優れたホームページを持っているなんて知らなかった私は、友人の紹介なしではけしてレイカに出会えなかったでしょう。
レイカはホームページ以外にどこにも広告宣伝などしてないのですから。

このホームページをご覧になっている皆さんはこの時点で、独立移住に必要な全ての情報を知ることができるんですよ。
法律は度々変更されます。正しい情報を早めに手に入れた人は、有利に対策を取ることができます。
あとは専門家のアドバイスじゃないでしょうか。単にポイントに達すれば独立移住ビザが取れるわけでもないようです。

感動の時からはや一年、いま私はシドニーにある世界的な日本語機関に就職し、充実した日々を送っています。 (^o^)(^o^)

大阪市在住、MMさん29歳(1999年9月取得)

私は現在29歳の俗にいう地方公務員です。しかも、何の特殊な技能もない事務職である私が、どうやって永住ビザを取得することができたのか?知人に 言わせると「信じられない!」そうです。そういう私も信じられませんが……。

私がオーストラリアの魅力にとりつかれたのは、もうかれこれ8年前。大学生の頃、初めてオーストラリアの地を訪れて以来、それからというもの何度も 足を運び各地を旅してまわりました。特に私のお気に入りの地はパースで、あの美しいエメラルドグリーンに輝くインド洋を見ては「ああ、ここで暮らせた ら…。」と思っていました。昨年結婚した妻も大のオーストラリアびいきで、数年前にパースにホームステイしていたこともあって、いつしか私達の口癖は、 「オーストラリアに住みたいなぁ。」になっていました。

それからというもの、ビザ関連の本を買ってきて読んでみたり、たびたびレイカのホームページを見たりしてみて、私の場合、永住ビザを取得するなら独 立移住ビザしかないのでは?という結論にいたりました。独立移住ビザのカテゴリーによると、職業・学歴、英語力、年齢の各ポイントをたしてパスマークポイ ントをクリアすれば永住ビザが発給されるとのことでした。年齢は当時28歳で余裕でOK、英語力は頑張ればなんとかなる、しかし、冒頭に書いたように、私 はしがない地方公務員であり、大学時代の専攻と現在の仕事が果たして結びついているのかどうか、はっきり言ってわかりませんでした、というより「きっとダ メだろうなぁ…。」という気持ちの方が大きかったのです。

今年の正月明け、ダメもとでレイカに相談し、私の独立永住ビザ取得の可能性を査定していただきました。妻と2人、諦めムードが漂いつつも、返事の メールを開けたとき、………我が目を疑いました。ビザ取得の可能性は比較的高い、というではありませんか。
その後、レイカに包括代理申請を依頼したのは言うまでもありません。

4月の中旬に大使館に申請書を提出し、ビザ発給の許可がおりたのが、それから約4ヶ月後のことでした。これは期間的には短い方だということです。そ の4ヶ月の間には、度々大使館から現在の仕事に関する追加書類の提出を求められたり、最終段階においては、大使館員との電話インタビューもあり、もし自分 1人でこれらのことをやっていたならば、きっと途方に暮れていたことでしょう。

また、7月1日から独立移住ビザに関して新ポイント制度が施行され、私の場合、いつ申請するかも大きなポイントでした。結果的には施行前に申請し、 見事ビザを取得することができましたが、これが施行後の申請であれば、ビザ取得の可能性はなかったそうなのです。
このような適格な判断が得られたのも、すべてレイカのおかげだと思っています。
独立移住ビザを取得して今思うことは、職業・学歴や英語力も大事ですが、やはり運とタイミング、あとはビザコンサルタントのテクニックが必要不可欠だと思 います。
みなさんも、「きっとダメかもしれない…。」と諦める前にまず、専門家に相談してみてはいかがでしょうか?思いもよらなかった結果が待っているかもしれま せんよ。
 
 


多数のクライエントが現在、職業認定機関の認定取得・ビザ申請済み・・・・・AIM及びTRAの代理申請はお取扱いた しておりません。
ACS(Australian Computer Society)
AACA(Architects Accreditation Council of Australia Inc.)
ICAA(Institute of Chartered Accountants of Australia)
CPA(Certified Practising Accountants)
IEA(Institute of Engineers, Australia)
NOOSR(National Office of Overseas Skills Recognition)
VETASSESS(Vocational Education and Training Assessment Services) などなど・・・


 

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